『Minimalists』K Robert Schwartz 著http://www.phaidon.com/Default.aspx/Web/minimalists-9780714833811

全訳です。

・・・表紙裏のト書き部分・・・

 ミニマリズムは二〇世紀後半が生み出した恐らく最もポピュラーなコンサート音楽で、ロック、ジャズ、クラシックのファンといったあらゆる聴衆に好まれています。しかしながらミニマリストの美学に議論の余地が無かった訳ではないのです。批判者にとっては、腹立たしいほどの反復と一本調子、芸術のふりしたポップ・ミュージック同然。賛同者にとっては、エクスタシー且つ刺激的、クラシックとポピュラーと非西洋的要素を混ぜて、作曲家と聴衆との断絶を回復するものでありました。
 アメリカ人のミニマル作曲家フィリップ・グラスとスティーブ・ライヒは世界的有名人であり、先輩(ラ・モンテ・ヤング、テリー・ライリー)そして後輩(ジョン・アダムス、メレディス・モンクとヨーロッパ人の3人マイケル・ナイマン、ルイス・アンドリーセン、アルヴォ・ペルト)の流れで彼らを的確に理解することができます。この本は一般対象とした初のミニマリズム概説書で、ミニマル作曲家の人生を辿り、最重要作品を話し、拠って来たる芸術環境を考察しています。
 著者ロバート・K・シュワルツはフリーのアメリカ人ジャーナリストで「The New York Times」「Classic CD」「Out」「Opera News」等に定期寄稿しています。スティーブ・ライヒについて博士論文を書き、現在ポール・ボウルズの音楽を研究中。著者のミニマリズムの記事は「Perspective of New Music and American Music」に掲載されています。

目次
序章:ミニマリズムの定義
一章 ラ・モンテ・ヤングとテリー・ライリー
二章 スティーブ・ライヒ・・・ミニマリスト  
三章 スティーブ・ライヒ・・・マキシマリスト
四章 フィリップ・グラス・・・ミニマリスト
五章 フィリップ・グラス・・・マキシマリスト
六章 アダムス、モンク、ポストミニマリズム
七章 ヨーロッパ人ナイマン、アンドリーセン、ペルト
器楽別作品リスト
参考文献
ディスコグラフィー
インデックス

謝辞
 ミニマリズムは学問研究の十分立派な領域と考えられていません、それゆえに私は、在学中の研究を支持し励ましてくれた心の広い二人ニューヨーク市大H・ワイリー・ヒッチコック教授、インディアナ大オースティン・B・キャズウェル教授に感謝します。ミニマリズムの学術調査は比較的少ないがエドワード・ストリクランド氏の素晴らしい研究「Minimalism:Origins and AmericannComposers:Dialogues on Contemporary Music」は例外であり、これに私は負っています。
 引用資料の多くは私が行ったインタヴューなのでこの本のクロスチェックに同意してくれた作曲家ジョン・アダムス、スティーブ・ライヒ、テリー・ライリー、ラ・モンテ・ヤングに特に感謝します。他の機会に多様な目的のためインタヴューを受けてくれた作曲家ルイス・アンドリーセン、フィリップ・グラス、メレディス・モンク、マイケル・ナイマンにも感謝します。またグラスの自伝「Music by Philip Glass」からの長い引用を許可してくれたDunvagen音楽出版社の寛大さにも感謝します。
 最後に楽譜、テープ、CD、記事を集める手伝いをしてくれた以下の人々に感謝します。メアリー・ルー・ハンフリー(G.Schirmer)、ジム・ケラー(Dunvagen)、ティナ・ペリカン(ECM)、スティーブン・シュワルツ(Boosey&Hawkes)、ジェド・ウィーラー(International Production Associates)、キャロル・イェイプル(Nonsuch)。

序章 ミニマリズムの定義
二〇世紀後半の音楽でミニマリズムほど論議をかもしたものは有りません。作曲家と聴衆の断絶を修復するその直接性、分かりやすさを支持する人もいれば、その腹立たしいほどの一本調子が芸術の皮をかぶったポップミュージック同然であると批判する人もいます。そして作曲家にとってはその言葉自体が重荷なのです。最も著名なミニマル作曲家スティーブ・ライヒとフィリップ・グラスがその言葉をひどく嫌い、自分達の作品に対して的確ではないと拒絶するのも当然なのです。
 まあ最後に笑ったのは聴衆のようです。「何処へも行かない音楽」「リズム針打ち音楽」「壁紙音楽」といった造語をしたメインストリームの作曲家や批評家からの三〇年にもわたるひどい嘲りにもかかわらず、ミニマリズムは巨大な商業的成功を収めたのです。グラスとライヒはベストセラー作品を出し、一流の委嘱を受け、会場をソールドアウトにする。二〇世紀コンサート音楽の世界で、彼らの聴衆は規模だけでなくクラシック、ポップ、ワールドミュージックのファンである点でも前代未聞です。
 嘲笑と喝采を同時に刺激する音楽とは?ミニマリズムとは厳密に言ってなんなのか?
 ミニマリズムと言う言葉は‘印象派’と同様に視覚芸術から取られ、これもまた印象派の様に最初は嘲りを込めて使われました。キャンバスを黒や白の一様な面にしたアメリカ人画家フランク・ステラやロバート・ラウシェンバーグ、巨大で丸い立方体や弧を作った建築家リチャード・セラやドナルド・ジュッド等は皆「ミニマリスト」と馬鹿にされました。困惑しながらもイギリスの作曲家兼批評家のマイケル・ナイマンはその言葉を音楽に移した容疑者であると認めています。「その言葉を導入した一九六八年当時、的確な芸術史的表現であり、深く考えなくても音楽的類似はあったと思われます。二十三年前の事ですし、聴衆のミニマルに対する音楽認知は変わるだろうと思っていました。しかしながら我々はいまだにジャンル分けに使われるに過ぎないこの言葉に引っ掛かっているのです。」と九一年にナイマンは言っています。
しかし妥当性があったからこの言葉は長く生き延びたのです。ミニマリズムのおじいちゃんとして尊敬されている作曲家のラ・モンテ・ヤングはミニマル・ミュージックを「最小手段で作るもの」と簡明かつエレガントに定義しています。ミニマルミュージックは作曲家が一定の作品内で使う材料の最小部分にまで切り詰めていくという減少概念に基づいてます。六〇年代の古典的ミニマル曲はハーモニー、リズム、ダイナミクス、器楽編成等全ての音楽要素が最後まで常に固定化してるか、もしくはとてもゆっくりとしか変化しませんでした。そして主要な構造手法は絶え間ない繰り返しで、うきうきさせる感じもありますが人によっては感覚麻痺させるものでもありました。
 ‘繰り返し’は伝統的西洋音楽ではドラマチックで一方向に向かう場面で使われます。例えば交響曲の展開部分、モチーフの繰り返しがエキサイトする熱狂へと駆り立てます。しかしミニマリズムでは、グラスが言う「無意図音楽」を作るために‘繰り返し’を使い、それによってゴール指向性を絶対静止と取り替えるのです。ミニマル作品はクライマックスに向かったり、緊張と開放のパターンを作ったり、感情のカタルシスを出さない点がとても非西洋音楽に似ているのです。‘回想と予想の伝統的概念’には無い新しい聴き方が必要とされるのですとグラスは言います。熱烈・穏やか、速い・遅い、大げさ・叙情といったコントラスト、西洋クラシックの実質的要素はミニマル音楽に見当たりません。ほとんど知覚出来ないくらいの時間をかけて変化するミニマリズムは我々の時間認知に対する挑戦なのです。
 したがって当然ミニマリズムは西洋クラシックより非西洋の伝統に多くを負っています。ラ・モンテ・ヤング、テリー・ライリー、スティーブ・ライヒ、フィリップ・グラスのアメリカ人ミニマル開拓者は皆インドのラーガやバリのガムランや西アフリカのドラムといった非西洋音楽に熱中しました。非西洋音楽の音は真似しなかったのですが、彼等はその瞑想的、時間停止的本質を取り入れたのです。その点で四人は、ビートルズがインド音楽をロックに取り入れたり、東洋哲学・瞑想・ドラッグによる知覚変容のサイケデリックがブームであった一九六〇年代の申し子でした。
 アメリカに生まれたミニマリズムはその強いポップカルチャーによって発展しました。ポップミュージックを聞き、バンド演奏して育ったミニマル先駆者はロックやジャズのシンプルなハーモニー、定期的ビート、ドライブするリズムにかなりのインパクトを受けました。この四人はついにポップ・ミュージックにならって自分のバンドを作ったのです。フィリップ・グラス・アンサンブルやスティーブ・ライヒ&ミュージシャンはロック系の会場で世界中をツアーしました。グラス・アンサンブルの大音量、強いビート、電子楽器にロックファンがぞろぞろ集まりクラシックファンが何処かへ行ってしまうのも当然でした。
 しかしながらミニマルのルーツとして非西洋音楽だけを強調するのは間違いでしょう。グレゴリオ聖歌の瞑想性、中世オルガヌムの静止性、バロック音楽の繰り返しリズムは二〇世紀ミニマルミュージックと共通点が有ります。少し前の作品ならばワーグナーの「ラインゴルド」オープニングのごぼごぼ言う三分間のE♭メジャーコード、ラベルの「ボレロ」の執拗なメロディの繰り返し、エリック・サティの諸作(一つのフレーズを八四〇回繰り返す「ヴェクセイション」は特に有名)があります。
 芸術革命は概して先行世代の慣習への深い反動であり、ミニマリズムも例外ではありません。ヤング、ライリー、ライヒ、グラスが音楽学生だった五〇年代後期、前衛音楽には二つの道が有りました。一つはシェーンベルク、ベルクの12音技法に従ったドグマ、数学、超合理主義的音列主義によって、やる気を挫くような複雑な無調作品へ至る道。音列音楽は非常に難しいので特権化された少数だけが理解できるものであるとアメリカ人作曲家ミルトン・バビットは述べました。それにもかかわらず音列主義は神聖でアカデミックな手法と成り、マジな作曲家は取り組まねばならなかったのです。
 音列主義よりランクが落ちるもう一つの道は不確定性、ジョン・ケージと弟子達が作った「偶然音楽」です。東洋哲学に影響を受けたケージは禅の思想を提案し身の回り全ての音を音楽として受け入れました。その結果はショッキングで散然、月並みな楽音というよりシアトリカルな「ハプニング」に近かったのです。しかし巨大な影響を持つ、純粋な音の開放をケージの哲学は表明しました。
 不必要な複雑さの音列主義と混乱的自由の不確定性、ミニマリストはこの二つを強く拒絶することから始めました。しかし実際その両方に影響を受けてはいるのですが。ミニマル的長さとほとんど聞き取れないような音量という静的要素を持つウェーベルンの音楽にヤングは感動しました。またケージは五二年に究極のミニマルを作曲していました。時間の長さを指定した彼の「四分三三秒」は音の指示が一切無いサイレント作品です。その場の音、例えば観客のブーイングも曲の一部になるのです。
 革命を始めるとき、まず極北を主張しその後に歩みよりへと向かいます。ミニマリストもそうでした。バビットとケイジを拒絶することでアカデミックと前衛からの非難を確信したのです。音列主義者とケージ派は調性は既に死んだと宣言していましたが、その明確な調性と定期的リズムによる原初パワーを再び取り入れて、ミニマリストはその宣言をはっきりと嘲笑したのです。
 ミニマリストは自分達が拒絶したものと同じ位革命的なものを提案しました。ライヒの簡素且つ声高な六八年のエッセイ「漸進過程の音楽」を今日読むとまるで政治声明同然です。彼の音楽にだけ当てはめていますが、ここにはミニマル美学全体への洞察がありました。
 自身が「音楽過程」と言う音楽の構造は、聴衆が聞き取れるものであるべきとライヒは強調します。はっきりと聞き取るためには、音楽過程はとてもシステマティック且つゆっくり展開しなければなりません。「認識可能なプロセスに興味があり、鳴り響く音楽にそって生起するプロセスを聴きたい。詳細な聴取を容易にするためには、音楽過程はだんだんとゆっくりと起こるべきで、それはまた時計の分針の動きを見ているようである。」と書いています。
 ライヒは音列主義と不確定性の聞き取れない隠された構造を明らかに認めていませんでした。彼は西洋に直系の先祖を持たない音楽を提案したのです(し既に作ってもいました)。もし彼が求めるようにプロセスが段階的に進行するなら、その音楽はかなりの時間を必要とせざるを得ないでしょう。そしてもしそのプロセスを知覚し続けるには、まず分かり易い反復が何度も何度も聞かれる必要があるでしょう。集中して数分聴いた後にのみ、ちょうど時計の長針の動きを追うように、そのプロセスによる変化がはっきりしてくるのです。
 ベートーベンやチャイコフスキーの情熱やクライマックスへの盛り上がりで育ってきたリスナーにとって、この新しいミニマル・ミュージックは中国の水責め刑音楽版みたいだったに違いありません。しかしジャズ、ロック、長時間枠の非西洋音楽の動的反復で離乳したリスナーにとっては驚くほど分かり易いものだったのです。実際ミニマル作品にはゆっくり展開する忘我の儀式的な所が有り、もしその儀式に身を任せるなら結果は素晴らしいものになるのです。「聴衆が天国にいけなかったら、俺の失敗だと思う」とヤングは六六年に言い、六九年にライヒは「言うまでもなく、音楽は聴覚域の全てをエクスタシーにすべきである。」と言いました。よそよそしくて陰気な二〇世紀クラシックが今までこんな聴衆友好的言葉を放ったことがあるでしょうか。
 ヤングは五〇年代後期、ライリーは六〇年代初期に最も純粋且つ厳格なミニマル作品を作りました。ライヒは60年中期、グラスは六〇年後期になってからシーンに出てきました。七〇年中ごろまでにライヒとグラスはムーブメントの商業的中心になり、初期の極減性からは既に離れ始めていました。実際八〇年代初期にはもうこの二人を「ミニマリスト」と呼ぶこと自体意味が無かったのです。しかし不適切なその肩書きを今でも負わされ続けているのです。
 そしてまた今でも彼等四人は互いに結び付けられています。歴史家エドワード・ストリクランドは冗談で「脅威のミニマル四人組」と名付けましたが、彼ら四人は一緒に扱われがちな事に憤慨し、音楽スタイルは極端に違うと主張しています。その間に商業的成功格差が四人の間に競争を生み、彼らをうるさい不機能家族にしてしまいました。「彼らに比べたらボルジア家(ルネッサンス末期イタリア最有力の一族)でさえ幸せな家族に見えるよ。」と批評家ジョン・シェーファーは書きました。
 このミニマリスト達の人生を見る前に、四人にはかなりの共通点が有ると書いておくのも無駄ではないでしょう。四人全員は三〇年半ばに生まれ、アメリカンポップミュージックに心を奪われ、ヨーロッパ指向の保守的トレーニングに耐え(拒否し)、アジアの音と儀式に心を向け、時を経て皆とても信心深くなりました。我々がミニマル・ミュージックと呼ぶようになった非常に減数的で本当に分かりやすい音楽へのユニークな道を四人それぞれが見つけたのです。
 ではその言葉自体はどうでしょうか。良かれ悪しかれ世界的に受け入れられるようになりました。初期の嘲笑的含みは無くなり、以前出されたトランス・ミュージック、ヒプノティック・ミュージック、レペティブ・ミュージックといったものよりミニマル・ミュージックは良い名称です。その上、歴史上どう呼ばれるかを決める権利は作曲家に無いし、作曲家が出来ることといったら座して結果と和解するくらいです。先人達が悩んだ不幸な‘〜イズム’に対してライヒは「ドビュッシーは‘印象主義’に憤慨した。シェーンベルクは‘無調’‘十二音’‘表現主義者’より‘全調’を好んだ。お気の毒だね。」と述べている様に。

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 ピアノの食事のため干草の束と水の入ったバケツをステージに上げる。ピアノに食べさせてもピアノが食べても良い。前者なら、ピアノが満腹になれば終わり。後者ならピアノが食事するか、或いはしないと決めたら終わり。・・・「デビッド・チュードアのピアノ曲一番」ラ・モンテ・ヤング 
 
 第一章 ラ・モンテ・ヤングとテリー・ライリー
 アイダホ平原にヒューヒュー風が吹き、少年が寝ている小さな丸太小屋の土台をゆすった。しかし彼はその長く続くうなりに恐れより魅力を感じていた。
 
 丸太小屋のベッドに寝て吹き抜ける風を聞き始めました。冬の風はひどく、ブリザードで顔の前の手が見えない。二、三歳の頃そんな事に折り合いをつけようとしました。誰かがラジオを消すようには、私は風を消すことが出来ませんでした。嵐が来るといつまでも続きそうで。私は風がとても深遠で荘厳だと気付いたのです。

 ラ・モンテ・ヤングのずっと変化しない音への愛好は明らかに子供時代に既に確立されていました。なんて子供時代でしょうか。アメリカ人作曲家の幾人かは自伝を魅力的にするためフロンティア(開拓者)的生い立ちを作らねばなりませんでしが、三五年十月十四日アイダホ州ベルンの小村に生まれたヤングにとっては、フロンティア(未開拓地)だけが知ってる全てでした。
 一九三五年ベルンは勤勉で敬虔な一四九人のモルモン教徒の酪農共同体でした。ベルンはテトン山脈の不毛丘陵地帯に囲まれたベア・リバー流域に位置し、ヨモギに覆われた荒涼とした草原で絶え間無い風雨にさらされていました。ラ・モンテは両親デニス&エラ・ヤングを「奥地の貧農」と表していました。確かに一家は非常に貧しかった。羊飼いのデニスはベア・リバー岸の二部屋の小屋に家族で住んでいたのです。
 貧しいけれど、音楽はヤングの子供時代に重要な役割を果たしました。父とおばが一緒にカウボーイの歌を歌うよう励まし、ヤングはギターを十分習い四歳までに伴奏できるようになりました。教会では会衆と共に賛歌を歌いました。四歳のとき家族の許しを得てアイダホ州のその地域最大の街モントペリエのリッチ・シアターでタップと歌を歌いました。その街に祖父母が住んでいて祖父母のアップライト・ピアノで実験することが出来たのです。
 まだ、そのピアノより環境音の方が音楽的でした。その環境音に影響を受けたヤングは最近思い出して言いました「そこら辺を歩き回れるようになってから、ある変圧器付き電柱の音を聞き、それがとても魅力的だと思ったのです」。まもなく父はモントペリエのコノコ石油配給工場に就職し、息子と一緒にそこで働こうとしていました。「その工場のすぐそばに、なぜかモントペリエへの電力を下げてる小さな変電所があり、見てそして音を聞くために何度もそこに戻りました。好んでよくその横に立って聴いたものでした」。聴いてるものをカテゴライズする手段が無くとも、ヤングはそのブンブンいうドローンに直観的に引き付けられていたのです。「私にはまだ長く響くトーンの概念があったとは思いません。ただ変圧器から出る長響音を聴いてうっとりしていただけです。」
 農業のアメリカが世界大恐慌から身を起こそうと戦っていた一九四一年に、ヤング家は父が仕事を探せるようロス・アンゼルスにヒッチハイクしました。機械工場に仕事を見つけたがヤング家はまだ貧しく、ラ・モンテは夕食にパンと牛乳を食べていたのを覚えています。ラ・モンテが素晴らしい音楽の才能を見せていたので貧しかったが父はサックスを買い与えました。
 ヤングは言います「私が七歳のとき父は家に古びてほとんど灰色に変色した銀のサックスを持ってきました。」「父はとてもワンマンなので、私は母に父がサックスを教えてくれるかどうか尋ねました、そしたらクリスマスと誕生日一緒のプレゼントとして父はサックスを私にくれたのです。」アマチュア・ミュージシャンの父は以前サックスを叔父のソーントンから習い今度は息子に教え始めました。その一方でラ・モンテは小学校のオーケストラで演奏し,近くの丘で家族が羊を追い集めるのを手伝いました。
 間もなくヤング家は再び引越しました、今度はアメリカの田舎ユタ州で叔父のソーントンの繁盛してるセロリ農場に父は管理者として雇われたのです。ヤング家は水道の無い古い家屋を与えられたのを残念に思いました。しかしラ・モンテはカンザス・シティやロス・アンゼルスのダンスバンドで長年磨いた叔父の音楽技能を大喜びで吸収しました。「叔父は私にサックスを指導し,楽譜を買ってくれ、古いスイングバンドのアレンジを全て教えてくれました。叔父を通すことによってジャズのテイストを発展させ始めたと私は真に思います。」
 ラ・モンテは田舎のユタ州で四年過ごし、例によって一番よく覚えてるのは環境ドローン音でした。「私が興味を持った自然の音は、よく馬やロバに乗っていたユタ湖周辺の森林地帯のふくろうの鳴き声でした。ある日森の中で調和した共鳴を聴き、それが何か解らなかったのですが、多分湖の方から聞こえていました。」ラ・モンテが高校に行く歳になり、子供が六人になっていたヤング家は家族会議でロス・アンゼルスに戻ることに決めました。
 依然としてヤング家は貧しかったので、ラ・モンテは線路脇に住んでいる祖母のところへ預けられました。当然ラ・モンテは鉄道操作場に引き込まれ、長いホイッスルや短い信号を聞くようになりました。間もなくジョン・マーシャル高校に入学し、ほとんど一夜にして音楽の視界が急激に広がったのです。
 これまでヤングはクラシック或いはビバップといったジャズの最新トレンドでさえほとんど接したことがありませんでした。ユタ州に居た頃ラジオでオーケストラ曲を一度聴いただけでなのです。これはチャールズ・アイブス、ハリー・パーチ、ヘンリー・カウエル、テリー・ライリーの無党派米作曲家も同じで、ラ・モンテは基本的にヨーロッパクラシックの伝統とは無縁に育ってきました。ですからジョン・マーシャル高校は天啓として現れたに違いないのです。
 マーシャル高はジャズ・ミュージシャンの温床で、ヤングは当時ビバップのスターだったチャーリー・パーカーの演奏にインスピレーションを受けた熱いサクソフォン奏者になりました。時を同じくして、以前シェーンベルクに師事した音楽教師クロイド・ソレンセンはヤングに和声を教えコンサートに連れて行きました、そこではロス・アンゼルス・シンフォニーがバルトーク「Concert for Orchestra」を演奏しました。しかしヤングは基本的に新人ジャズ・ミュージシャンだったのです。
 ある意味ヤングはジャズ・ミュージシャンであることが必要でした、というのはダンスバンドの仕事の収入で生きていたからです。また放課後は機械工場でも働き精密カメラ部品を作る手伝いをしました。時給四〇セントの収入で初めてセルマーのアルトサックスを買いました。「当時セルマーは三〇〇ドル、時給四〇セントで何になるっていうんですか?ほぼ毎日放課後その工場に行き旋盤やドリルプレスを動かしてました。で、工場のドローン音に合わせてよく歌ったり口笛吹いたりしていたのです。」
 高校卒業近くになったある時、ビバップのライフスタイルにのめり込んでいたヤングは家出をしました。

 両親、祖父母は俺がいつもナイトクラブで演奏し、黒人と共演することにも動揺していました。私はマーシャル校で共産主義のユダヤ人生徒に会い、教会員で無い女の子と出かけていました。まあ私は長男で初孫だから模範的教会員でなくちゃいけなかった。そんなのに疲れてしまって。親達は私のサックスをベッドルームのクローゼットに隠しさえしましたが、私は見つけ出し、それを持って本当に家出をしたのです。どっかの安いドライブインモーテルに行って、シートベルト・バックル工場で仕事を見つけました。
 
 ヤングは前にも増してジャズに集中し、有名なダンスバンドを誇っていたロス・アンゼルス市大のジャズ教科課程を受けました。おそらくマーシャル校の腕利きジャズ・ミュージシャンはこの大学のバンドに入ることを夢見ていたでしょう、ヤングも例外ではありませんでした。ロス・アンゼルス市大に着いてヤングはアルトサックスの席を巡る強い競争相手がいると分かったのです。

 かなり練習しました、よりによって第二アルトの席を巡って最後にはエリック・ドルフィーとやりあうことになったのです。どうやったか覚えてませんがドルフィーを打ち負かしました。まぁ私はは良く吹きました、オーディションにいた人は私がが吹いてる時はまるで爆裂してるみたいだと言っていました。当時はジャズが人生。それが全て、したいことの全てでした。

 ドルフィーは後にサックス奏者ジョン・コルトレーンのサイドマンとして世界に名声を博す人です。ヤングのサックスの腕前は相当なものでした。大学時代に作ったヤング・カルテットの録音には、ヤングが火を吹くような即興奏者でビバップ同時代の人々と同じくらい猛烈に躍動するメロディを撒き散らしていました。より重要なのはヤングが既にジャズのお決まりコード・チェンジを脱ぎ捨ててもっと予測し難い和声に乗って即興し始めていたことです。オーネット・コールマンのフリージャズの追究のためにヤング・バンドのメンバー、ドン・チェリーとビリー・ヒギンズがオーネットをサポートした事は決して偶然の一致ではないのです。
 ヤングはジャズ革命を起こすようになったかもしれませんが情況は違う方へ向かいました。ヤングはロス・アンゼルス市大に着くとすぐレナード・スタイン(当時シェーンベルクの最重要アメリカ人弟子で後にアーノルド・シェーンベルク協会監督とシェーンベルク記録保管所管理人になりました)に師事しました。スタインはこの型破りで非慣習的な十代の学生に作曲家の素質を感じました。「本当にレナード・スタインは私を指して作曲家だと言いました。授業課題で「Five Small Pieces for String Quartet」(1956)を書いた時スタインは私の前で授業を受けてる人々に私が作曲家だと言ったのです。それから私は本当に自分が作曲家だと考え始めました。」
 スタインはヤングに二〇世紀クラシック音楽の全容を紹介しました。特にシェーンベルク、アルバン・ベルク、アントン・ウェーベルンの無調、音列技法を。そしてすぐヤングはウェーベルン音楽に転向しました(ヤングの小曲「Five Small Pieces for String Quartet」(1956)は同じように小さいウェーベルンの小曲からはっきり影響を受けていました)。どのミニマリストよりもヤングは音列主義と実りある関係を築きました。音列主義を息が詰まりそうと感じたこともなくまたヤングの初期ミニマル作品は音列技法を使ってもいました。数年の間ウェーベルンはヤングのアイドルになり、振り返って見るとその理由も分かるところがあります。
 ウェーベルンは熟達した技術でシェーンベルク・ウィーン楽派の後期ロマン派的苦悩を脱ぎ捨てシェーンベルクの十二音技法を超合理純化形へと押し進めたのです。ウェーベルンの曲において静けさは音と同様に重要なものであり静かな音量、透明なテクスチャ、極端に単調な時間枠は全てミニマル原型のオーラを放っていました。しかしヤングが最も影響を受けたのはウェーベルンの静的な音質(ある楽章中に特定の音程が繰り返される時は必ず一定のオクターブに戻ってくる)でした。
 スタインとウェーベルンのおかげでジャズはヤングの視界から消えて行き、一九五七年カルフォルニア大学ロス・アンゼルス校(UCLA)に入学した時にはもうほとんどサックス演奏を止めていました。一方UCLA音楽部はヤングに全く新しい地平を開いて見せました。民族音楽学で有名なUCLAには雅楽(日本の伝統宮廷音楽)やガムラン(金属パーカッションを使うインドネシアのアンサンブル)を演奏するオーケストラがありました。ある夏、ヤングはアキ・アクバ・カーンがインドのラーガを演奏しているアルバムを買い、演奏が時間を超えて徐々に長く長く展開する即興音楽に魅了されました。「私は部屋で何度も何度もこれを聞いていたので、祖母は心配して最後にはアルバム・ジャケットに‘阿片音楽’と書き付けました。」
 非西洋音楽が阿片であるならヤングがUCLAで学んだ中世聖歌とオルガヌムもそうでした。ずっと後の一九六六年ヤングは中世西洋音楽とアジア音楽のつながりを指摘し、なぜそんなに深く影響を受けたのか説明しました。「西洋半球特有の音楽の大部分にとってクライマックスと展開性はとりわけ重要な指導的役割を果たしていました。しかしそれ以前の音楽、例えば聖歌からオルガヌム、マショー(ギョーム・ド・マショー(c.1300-1377) アルス・ノヴァ(1320〜1400)時代の代表的作曲家)は静謐さを東洋音楽システムが持っているものに近い構造の一つとして使っていました。」
 “静謐”、この言葉がヤングの音楽興味を全て要約しています。一九五八年六月UCLAを卒業する頃にはウェーベルン、中世音楽、非西洋音楽にヤングは取り付かれていました。そして又子供時代に聞いていた風、変圧器、旋盤、列車車庫のドローン音を忘れることも有りませんでした。これらの全てには我々の時間認識を阻害する不動性がありました。
 しかし誰もヤングほどラディカルに時間認識を破壊しようとした人はいません。一九五八年の夏初めてヤングは熟達した曲「Trio for Strings」を書きました。これは二〇世紀音楽の歴史上画期的事件であり、アメリカ・ミニマルミュージックのほぼ源泉とも言える作品でした。カルフォルニア大学バークレー校で卒業論文を書き始めた一九五八年秋、「Trio〜」(UCLAロイスホールの巨大パイプオルガンの前に座り作った曲ですが)は完成し再販のため半透明紙にコピーされました。
 なぜ「Trio〜」は今日でも過去に類を見ないような新機軸足りえたのでしょうか?それは西洋音楽史において、音がただ長く伸びるだけの曲なんて無かったからです。「Trio」は完全な音列曲でしたがこの静まった不動和音はメロディとリズムを捨て去りその代わり時間経過を浮遊させることに集中した作品でした。例えば「Trio〜」のイントロは音が三つしかなく、それぞれ弦楽器に一音ずつ割り当てられていて、音量が増した後、消えゆくまで五分かかります。(「Trio〜」の演奏には約一時間かかりますが、第一草稿では数時間の予定でした。)
 こういう作品は何処から来たのか調べたくなりますが、実際のところ祖先に当たるものは無いのです。ウェーベルンは静謐強弱法、不協和声言語、音と沈黙の等価性をヤングに教えました。(ヤングはジョン・ケージの完全沈黙作品「4’33”」をまだ聞いていませんでした。)雅楽、ラーガ、列車ホイッスルのロングトーンからより多くのインスピレーションを得たのかもしれません。しかし究極的には「Trio〜」は不敬で偶像破壊的な大学院生間近の精神から出てきた物なのです。ヤング本人でさえ上手く説明できなません。最近ヤングはこう述べました「どのようにして長音維持トーンを書き始めたのか、説明しづらいですね。ただそうしたかった、と言う以外に。」
 しかしバークレーの作曲教授セイモア・シフリンはそうしたくなかったのです。シフリンはシェーンベルクを賞賛していましたが形式教条主義というわけではありませんでした。しかし彼のオープンな態度もそこまででした。ヤングがシフリンの授業で初めて課題を提出したとき、こういう曲を書き続けるなら単位は取れませんよと言わたのです。「曲という物は何処かへ向かって展開していくものだとシフリンは考えていたので私に本当にこう言いました『八〇歳の老人みたいに曲を書くね。旋律が有って、クライマックスが有って、進行して行く曲をあなた書くべきです。』と。」
 しかし「Trio〜」は何処へも向かって行かない曲でした。シフリンはヤングの才能を確信していましたが、もしかしたら紙に書いた音符と出そうとしている音が違うのかもしれないと思いました。それでヤングの間違った判断を示そうと「Trio〜」を家で生徒に演奏させました。この奇形音楽を実際に聞かせることでヤングを間違った道から引き返させようとしたのです。
 この初演の現場にはシフリン作曲クラスの他のメンバー、デヴィッド・デル・トレディチとポーリーン・オリヴェロスがいました。ヤングは彼らが‘控え目ながら困惑’していたのを覚えていますが、思い止まりはしませんでした。この時の演奏はバークレー周辺で伝説になり、ヤングはこう言っています「オレがイッてしまったとほとんど皆そう思っていました。」ほとんど皆、つまり或る若き作曲科の院生テリー・ライリーを除いてですが。数週間後ライリーはヤングのサポーター、親友、パート・タイムの仲間、フル・タイムの音楽同僚になるのです。ここから二人の人生はしっかりとリンクします。つまりミニマリスト・クラブに第二のメンバー加入といったところです。
 ヤングがアメリカの田舎である西部の子供だったように、ライリーは北カルフォルニア・セラ・ネヴァダ山脈の麓で育ちました。ライリーが一九三五年六月二四日に生まれたカルフォルニア州コルファックスは大陸横断列車が車線変更するための巨大な切替車庫をもつ街でした。父親はコルファックス〜アップルゲート間担当だったので家族は鉄道のすぐ側に住んでいました。
 両親は音楽系の人ではなかったので、ライリーの子供時代に音楽は本質的な物ではありませんでした。イタリア人の祖母はオペラのアリアを家で歌ったり、ライリーはラジオを聞きながら「Pennies From Heaven」といったポップススタンダードを口ずさんだりしていたのを憶えています。しかし両親が六歳のライリーにヴァイオリンを与えたところからすると、何がしかの音楽的才能を見せていたのかもしれません。「私がヴァイオリンを始めたのは当時ヴァイオリンの先生しかいなかったからだと思いますね。その頃には私達はカルフォルニアの更に北レディングに引越していて父は鉄道職に就いていました。当時私は音楽に多大な興味を持ち始め、隣家に行っては耳で覚えた曲をピアノで弾いていました。それで両親はヴァイオリンの先生を見つけヴァイオリンを私に持って来てくれたのです。」
 間も無く戦争が始まりライリーの父は海軍に入隊し家族は又引越しすることになりました。この時ライリーはピアノに転向し、この楽器が彼のメイン楽器になっていくのです。しかし一方でライリーはヤングのようにほとんどあらゆるポップスとジャズを聞いて育ちました。「こういった田舎に住んでいたのでラジオから流れるポップスを主に聞いていました。あの頃クラシック音楽を聞く機会なんてほとんどありませんでした。」
 一九四五年のある日ライリーはライフ誌のチャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーの記事を見て、新しいビバップ革命に魅了されました。しかし高校に入るまで実際にビバップを聞く事はなかったのです。「一九四五年当時レコード入手は大変なことでした。特にレディングなんかに住んでいては。レコード店に行ってあれやこれや求めるとします、でもあるのはカウボーイ音楽だけなんですから。」
 高校の音楽教師のおかげでライリーはビバップの最新発展型だけでなくドビュッシー、バルトーク、ストラヴィンスキーといった二〇世紀クラシック音楽も知ることが出来ました。高校バンドでメロフォン(弁付き金管楽器)を弾き小さなダンスバンドで演奏しパーティーを盛り上げて小金を稼ぎました。高校の最終学年にはデュアン・ハンプトンに師事しピアノの勉強を始めましたがそれまで他に受けた音楽教育は比較的小さなものでした。レディング生まれのハンプトンはフィラデルフィアのカーティス専門学校を卒業しましたが故郷に戻って来ていて、彼の指導の下ライリーは三年間でよく成長しました。
 実際急速に成長したライリーはコンサートピアニストとしてやっていくことに決めました。「一日五、六時間練習し始め、又あらゆるクラシックの文献をむさぼりました。(レディングの)短大時代二年間は私が音楽家として仕事をしていきたいと決めた時期でした。しかし当時はピアニストになりたいと思っていました。特にバッハ、ドビュッシー、バルトーク、プーランク、ミヨーといった弾きたい素晴らしい曲を発見した後は。」
 一九五五年サンフランシスコ州立大に編入してからライリーは作曲へと路線変更しました。

 サンフランシスコ大学に来た時、私よりもっと上手いピアニストがいるのに気付きました。そしてキャリアの選択を考え直した方がよいことにも気付いたのです。作曲クラスは極めて素晴らしいものでした。そこには十分経験を積んだ本当に刺激的な作曲家や友達が大勢いました。彼らはベイエリア出身だから私よりもかなり進んでいたのです。私はたくさん曲を書き始めました。自作曲を自分で弾くのは本当に楽しいものです。

 ライリーはサンフランシスコ大でロバート・エリクソンに師事し、ロバートはシェーンベルク、ウェーベルンの厳格音列主義を紹介しました。しかしライリー自身の曲は調性があり、控え目に「プーランク/ミヨー型のイミテーション」と例えました。一方で好きなジャズを追求しラグタイムジャズ以前のシンコーペーションとセレニアス・モンクのポスト・バップ革新を研究しました。
 サンフランシスコ大を一九五七年に卒業した後ライリーは(結婚していて養うべき家族がいたので)ユナイテッド航空に就職しチケットを売ったり手荷物チェックをしました。後に、サンフランシスコのバーバリーコーストにあるゴールドストリートサルーンでラグタイムピアニストの職を得ました。偉大なラグタイム奏者ウェイリー・ローズ指導の下、ライリーは仕事兼用でラグタイム、ホンキートンク、ストライド奏法などあらゆるトレーニングを受けました。ライリーは追想します、ゴールドストリートサルーンは「Gay90s(ゲイ・クラブ)のパクリで裸のホステスがいて、メイン・イヴェントは毎夜行われるニューイヤーズ・イヴで、ホイッスルを吹いたりポップコーンを回し食いしたりしていました。辛い仕事でしたがウェイリーがいたので大好きな仕事でもありました。」
 一九五八年秋ライリーはカルフォルニア大学バークレー校の授業に参加し始め、すぐラモンテ・ヤングに出会いました。ヤングはいつものように、ライリーに「Trio〜」の譜面を見せ後にこの曲のテープを聞かせました。ライリーはブッ飛んだのです。

 当時のラモンテ音楽の大きな特徴は(私が知ってる)時間を完全に崩壊せしめたことにあります。まるでタイムカプセルに包まれて宇宙の何処かを漂い、何かが起きるのを待ってるようでした。私はこの待機状態を楽しんでいました。たぶんこれは現実に対して私がとる初めての禅的アプローチだったと思います。つまり次に来る物を待つのでは無く、今現在起きている状態を楽しむのです。

 ライリーは曲だけでなくヤングの人柄にも魅了されました。ほぼ四〇年経った今でも鮮明に覚えています。

 私はラモンテの一挙手一投足に本当に感銘を受けました。彼のライフスタイル、書く音楽、全てが普通じゃありませんでした。彼はめちゃくちゃエキセントリックだったのです。彼はとてもアヴァンギャルドな服装で、靴下を履かず、やぎヒゲで長髪にベレー帽、これが五〇年代後期の頃、ビートルズより先だったのですから。私にはサンフランシスコでビートニク運動に関わっている友達がいて、ビートニクスにも非常に魅力を感じていました。ですからラモンテに出会った時「オー、イェイ、こいつは仲間だ」と思いました。しかもラモンテは音楽に対し高尚な考えを持っていて、これは私が先生達に師事し体得してきたものよりも素晴らしいと思えるものでした。

 一九八七年ライリーはラモンテとラモンテの音楽から受けたインパクトをこう要約しました「イニシエーションみたいなものです。つまり、もう今までの自分とは違ってしまうのです。」とは言うものの邂逅後二人とも今までとは同じでなくなったのです。ヤングは自身のアイデアと曲が当時習っていた事柄から隔絶していたので、ライリーのたゆまない励ましを必要としていました。一方ライリーはヤングを、全く予想できない曲を作るかも知れない音楽的人間的モデルと見なしていました。
 一九五九年夏ヤングはドイツのダルムシュタットに行き、そこではヨーロッパ前衛のアンファン・テリブルことカールハインツ・シュトックハウゼンが国際新音楽セミナーを開いていました。シュトックハウゼンはその頃ヤングが聞いたことも無いジョン・ケージ哲学に鞍替えしたばかりでした。ヤングは思い出します、「ダルムシュタットでシュトックハウゼンはずっとケージの事ばかり話していました。ケージがああ言ったケージがこうした、と。」その夏ケージの曲は演奏されませんでしたが、ヤングはピアニストのデヴィッド・チュードアに会う事が出来ました。チュードアはケージ音楽唯一最高の演奏者であり又「4'33」を一九五二年に初演した人物でもありました。
 秋にバークレーに戻るとヤングはケージ哲学を自分の音楽に応用することにしました。ヤングはケージ哲学の「あらゆる音は音楽作曲に利用され得るという信念」に最も影響を受けたことを覚えています。ライリーはある日ヤングがやって来てうれしそうにこう言ったのを思い出します「今まで私はワイルドな奴と思われてたけど、俺がこれからすることを見ていて欲しいね。」
 ヤングはバークレー音楽部をひっくり返すようなことをするのです。そしてライリーがこの冒険に協力するのも避けられませんでした。ヤングは言いました「私の「Trio〜」は大学の音楽生活から首尾よく締め出されていましたが、私がダルムシュタットから戻って来て大学助手をしていた時気付いたのです、昼間のコンサートが出来る」と。これら昼のイヴェントを媒介とし、ライリーの助けを借りつつ、ラモンテは疑うことを知らない学生の集まりに対し最新の挑発的刺激を放ったのです。
 「Vision」(1959)では客席の電気を消し、爆撃のような大音量で観客をパニックに落とし入れる作品。「Poem for Tables, Chairs, Benches, Etc.」(1960)では家具をバラバラにして床に撒きました。ある忘れられないパフォーマンスでは、ライリーとヤングは外でキャッチボールをし、誰かが芝を刈る一方ホール内では演奏者が卵を焼き寝袋で寝、おはじきをし、挑発的なチラシを配りました。
 一九五九〜六〇年ライリーとヤングは二人でアン・ハルプリン・ダンス・カンパニー座付き作曲家を務め、ケージ系作品を作りました。ライリーはあるロサンゼルス公演を覚えています。

 私達は劇場の外にあるホール周辺の階段からゴミ缶を引きずりながら降りました。聴衆はびっくりして地震かそれに類する事がホール外で起きていると思ったことでしょう。このものすごくウルサイ音がホールに響いた時、ダンスに音楽が付くと思っていた観客は実際何が起こっているのか全く分からなかったのです。

 一九六〇年4月の「2 Sounds」が極北点だったようです。ある演奏でヤングはゴングを床に引きずって歩き、ライリーは壁にゴミバケツ缶をぶつけました。この時観客は大声でののしり、なかには見当違いな自己防衛手段としてアメリカ国家を歌い出す者もいました。こういうのがジョン・ケージの喜ぶハプニングでした。
 しかしながらバークレー音楽部員はこういうのを気に入りませんでした。この頃ヤングとライリーはバークレー二年生でしたが、音楽部当局にとってヤングはかなりの恐怖でした。ライリーも嫌われていましたが当局にはまだコントロール出来そうでした。そんな訳で次年度支給金の時大学当局はライリーには在学奨学金を、ヤングには派遣奨学金(つまり街から出て行けという意味の片道切符)を与えました。ヤングは言います「私は自分のアイデアをまとめ上げ売り込むのが非常に上手でしたし、私のしている事には意味があるのだと仲間の学生に確信させる事が出来ました。大学当局は私が音楽部門を乗っ取るんじゃないかと恐れていたので私を排除したかったのです。」
 ヤングは奨学金を使ってニューヨークに行きました。「ニューヨークにつくと私は本当に前衛の寵児になりました。私はちょっとしたセンセーションだったし、生活は素晴らしいものだったのでバークレーに戻るなんて考えた事さえありませんでした。」とヤングらしい謙遜を込めて思い出しました。
 ヤングはバークレーを発つ前に連番作品「Compositions 1960」を始めていました。ほとんど音符譜面の無い「Compositions〜」は演奏者への指示が書かれているだけで、音を出すものも出さないものもありました。「Compositions」はその年の秋ニューヨークで完成しました。幾つか引用してみましょう、

 ・「Compositions 1960 #2」‘観客の前で火を起こせ・・・’
 ・「Compositions 1960 #5」‘演奏会場で一匹(もしくは任意数)の蝶を放て。この曲が終わったら蝶を必ず外に逃がせ・・・。’
 ・「Compositions 1960 #10」‘直線を引いて辿れ。’
 ・「Piano Piece for David Tudor #1」‘干し草一俵と水の入ったバケツをステージに持ち込みピアノに飲食させなさい。演奏者が食べさせてもいいし、ピアノ自身に食べさせても良い。前者ならピアノが一杯になったら終わり、後者ならピアノ自身が食べるか或いは食べないと決めた時に終わる。’

 「Compositions 1960」シリーズには慣習的な譜面のものが一つだけあります。「Compositions 1960 #7」でシ−ファ#の開放5度を使い‘長く維持すること’と書かれています。振り返ってみるに「Compositions 1960」シリーズは後にヤングが築くのを手伝った‘コンセプト・アート’と呼ばれるジャンルの好例でした。こういう作品では出て来る音よりもコンセプトそのものが重要なのです。
 これらの作品はケージの影響なしには生まれ得なかったのですが、ヤングは今やケージの手法からはっきりと離れてきました。後にヤングはこれらの作品を‘単一イベント劇場’と評しましたし、まさにこれがケージとの違いなのです。バークレー時代はケージ流多様イベント劇場を信奉していましたが、今やヤングは奏者を単一厳格定義行動に制限するような作品を作っていました。まるでケージを‘ミニマル化’したみたいです。つまりケージの混沌ハプニングの素材をミニマル減縮するのです。ヤングは言います「私の方向性が違うのは非常に静的なアプローチに興味がある所だと思います、一方ケージの演奏はもう少しバラエティ・ショーに近いものです。」
 ヤングは一九六〇年十月ニューヨークに着きグリニッチヴィレッジ、バンクストリートのアパートに引っ越しました。東海岸に来た第一の理由はリチャード・マックスフィールドに師事して電子音楽を学ぶためで、時にはザ・ニュー・スクールでマックスフィールドの授業に参加しました。マックスフィールドのセミナーでヤングが講義した時ヨーコ・オノがいて、彼女はヤングに魅了されました。間も無くオノはマンハッタンのコンセプチャル・アート界の主要な演奏者になりヤング作品に大きく影響を受けるようになるのです。彼女はヤングにある斬新なアイデアを持ち掛けました。彼女はダウンタウンの自分のロフトでコンサート・シリーズをやりたいと思っていたのですが、さてヤングはこれを喜んで監督したのでしょうか?
 ヤングは組織力に自信が有ったので、やりたいなんてものじゃありませんでした。オノの大きくてガランとしたロフトは当時のラディカルな芸術家が好んで集まり始めていたロウアーマンハッタン(後にトライベッカとして知られる)の薄汚いチャンバース・ストリートにありました。ヤングは同志の作曲家、画家、作家を集め一連のミックストメディア・イベント(今日パフォーマンス・アートと言われるもの)を創りました。謄写版印刷したプログラムには【太字全大文字→】‘このシリーズの目的はエンターテインメントではない’と警告が書かれていましたが、聴衆はバークレーの人達よりも理解がありました。ヤングは思い出します「コンサートでは本当に混乱を作り出していました。私の知る限りこのシリーズはニューヨークで最初期且つ最大のオルタナティブ空間コンサートでした。マルセル・デュシャン、ジョン・ケージ、ジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウシェンバーグといったニューヨーク前衛界のインテリが本当みんな来ました。」
 オノが一九六〇年十二月から一九六一年春までホスト役を務めヤングは一九六〇年に作った幾つかの作品をプログラムに載せました。一九六一年五月に「Compositions 1961」(これは「Compositions 1960 #10」−直線を引いて辿れ−を29回繰り返すだけ)を演奏しました。これは字義通りにも又比喩的にも解釈されうるもので、床にチョークで単線を引いても、一つのドローン長音でもいいのです。
 しつこい反復を使ったある作品だけこの時期の作品群から突出していました。この曲のタイトルは「Arabic Numeral (Any Integer) for Henry Flynt」(1960)で、大きな打撃音なら何でも又何回繰り返してもよいというものでした。ある演奏ではヤングはフライパンをスプーンで六〇〇回ぐらい叩き、また別の時はピアノ不協和音を一六九八回叩きました。ヤングがリズム反復のアイデアを探求した事はありませんでしたが、後のミニマル作曲家が反復を使って音楽の構造主柱を作っていった点からすると「Henry Flynt〜」は歴史上重要作品なのです。
 しかしヤングはオノとミクストメディア・シーン全体に幻滅を感じるようになりました。そこでヤングは自分が創始した劇場系コンセプチャル・アートの追究を他の人々に特にフルクサスとして知られるようになるニューヨークのパフォーマンス・アート達に任せることにしました。そしてヤングは昔のように純粋な音楽的音響に取り掛かりたいと思い始めていました。

 言葉で作品を作り続けるべきなのか私は真剣に考えていて、そうはしたく無いと徐々に分かってきました。抽象的な音はより深淵な言語であると、言葉は日常的要求と実用主義の言語であるが音響を通せばもっと想像的なコンセプトを表出しえると決心しました。

 誰もヤング本人でさえも、どんな音の道を探求していくのか予想できませんでした。既にミニマル・インスト曲を作り、ミニマル・コンセプトアートを作っていたヤングはこのミニマリズムをトレンディなロウアーマンハッタン系の音ではなく、幼少の頃に影響を受けた音響へと向けていきました。
 テリー・ライリーは‘精神的兄弟’との別れを悲しみながらバークレーに残り19610年春に修士号を得て卒業しました。この頃には既にヤングのアプローチから離れミニマリズムへと向かっていました。ヤングはまず維持音そして次にコンセプトアートに惹かれましたが、一方ライリーは徐々に反復を音楽構造として見るようになっていました。そしてスタジオでテープを使って作品を作ることを思い付いたのです。
 一九六〇年頃ライリーは録音物から取り出した音を永久反復させるようなテープ・ループを作ったり操作したりする実験を始めました。当時のテープ技術はまだ原始的で、モノラル・オープンリールを使った大きく不便な録音機でした。ライリー初のテープ・ループ作品はアン・ハルプリンが自分のダンス作品「The Three-Legged Stool」用に委嘱した曲「M Mix」(1961)でした。(サイケデリックに非常に興味を持っていてその時流行っていたメスカリンのMから取ったと、ためらうことなくライリーは認めています。)
 スピーチ、ピアノ、その他の音を素材とし、ディストーションかけたりそのまま使ったりして「M Mix」のループを作りました。この曲を家で作るためにライリーは型破りな方法に頼らざるを得ませんでした。「ループを作り出す時、古い車庫にあった私のスタジオはそんなに大きくありませんでした。ループを中庭にまで伸ばしたり、ワインボトルに撒きつけたりして9メートルのループを作りました。その後ははさみと接着テープを使いました。まじでファンキーでしたね。」
 機材には限界があったにしろ、ライリーは非常に重要なもの、つまり音楽を組み立てる基本原則として反復を利用する事に思い当たったのです。そして今ヤングとは異なった道へ向かおうとしているのに気付きはじめていました。最近こう述べています、

 一回以上聞けば物事は異なって聴こえるのだと分かり出しました。聴けば聴くほど違って聴こえてくるのです。全く同じ状態でも音は変わっているのです。ここに私は惹かれました。これが静止状態であると、ラモンテと私が彼の長音作品について何度も話し合っていた物だと、しかしこれは使用方法を変えた静止状態なのです。当時サイケデリック体験の第一波が起こりつつあり、これは我々の時間経過認識を変え又音楽聴取体験をも実際に変えてしまうものでした。

 ライリーは卒業後、妻のアンと娘のコリーンを連れ家族でいそいそとヨーロッパへ向かいました。途中ニューヨークに立ち寄りヤングに会ってから船でスペインに発ちました。‘世界を巡るヒッピー’人生をしたわけです。活動の拠点をパリに置きフレッド・ペインのアーティスト・バーでピアノを弾きました。そこからヨーロッパ中のアメリカ軍用基地将兵クラブに行き演奏しました。一九六二〜六三年はサーカス風バラエティ・ショーをブッキングした代理店で働きもしました。炎食い人やアクロバットの実演に伴奏をつけたりバスの運転をしました。
 バークレー時代にライリーは非西洋音楽を聞き始め、インド人シタール奏者ラヴィ・シャンカールのコンサートに行った事もありました。しかし非西洋音楽に本格的に触れたのは六二年と六四年の二度、モロッコに旅行した時でした。ライリーはジョン・コルトレーンと同じ様に、ハーモニー的静止を持つ一方で名人芸的華やかさも併せ持つアラブ音楽に魅了されました。特にモスクの尖塔の張り出しからからムエジン(祈祷時報係)が回教徒に祈りの時を告げる声に感嘆しました。一九八七年ライリーは言いました「これこそが音楽だと感じたのをはっきり覚えています。コーランの朗唱はコンサートステージで歌われるべきではありません。」
 ライリーは忙しく旅行していたのであまり作曲しませんでしたが、家では出来なかった最先端テープ・テクノロジーを垣間見る機会に一度だけ恵まれました。劇場作「The Gift」の作曲を頼んだ劇作家ケン・デューウェイのおかげでフランス国営ラジオ局スタジオに入る事が出来たのです。そこのエンジニアはライリーによると‘白いコートを着た背の高い男’で、エコー効果が欲しかったライリーはこの男の行動を驚嘆して見つめる事になったのです。「いろいろいじくり回して、ついに二台のテープレコーダーを接続してしまったのです。全く!この音こそが私の求めていたものだったのです。」一台のテープレコーダーの再生ヘッドからもう一台の録音ヘッドにテープを引き伸ばして後にライリー言うところの「タイムラグ積算機」を作ったのです。(聴けば直ぐ分かるのですが、説明するのは難しいものです。まず一台目が既録音テープを再生し、その音を二台目が録音します。次に今録音された音を再び一台目が再生しその音をまた二台目が録音します。このプロセスを繰り返していくと音のテクスチャーがだんだん厚くなっていくのです。)
 ライリーはこの反復技法を使って「Music for The Gift」(1960)を作曲しました。この曲用にライリーは、チェットベイカー(tp)カルテットがマイルス・デイヴィスの曲「So What」を演奏したのを録音し、そのテープをこのタイムラグ行程に通して走らせました。しかしこの頃にはライリーのヨーロッパ滞在も終わりに近づいていました。一九六三年十一月ケネディ暗殺後アメリカ軍基地では将兵を楽しませるのをやめてしまいライリーは収入の道を絶たれアメリカ合衆国に戻らざるを得なくなりました。一九六四年二月ライリー一家はニューヨークに着きヤングと再会しました。その時ヤングは妻で画家のマリアン・ザジーラと組んで一年たった時でした。
 一九六三年ヤングとザジーラはロウアーマンハッタンにある元産業ビルのロフトに引っ越し今でもここに住んでいます。居住スペースとリハーサル・ルームと倉庫がゴチャゴチャになったこのロフトは三〇年間ヤングの音楽活動発信地で、ライリーはここにヤング最新の曲を聴きに来ました。そして昔「Trio for Strings」を聴いた時のように、また深く影響を受けたことでしょう。なぜならヤングは三年前のコンセプチャル作品からずいぶん遠くに来てしまっていたのですから。
 一九六二年ヤングは長い間忘れていたサックスを再び手にしました。ちょうどジョン・コルトレーンが開拓し始めた新しいモーダル・ジャズに明らかに影響されたのです。コルトレーンはビバップのスタンダードなコード・チェンジの代わりに長く伸ばしたハーモニーを使いその上に華やかで恍惚とするソプラノ・ソロを即興で吹いたのです。コルトレーンが吹く刺すようなソプラノの音とオーボエに似たインド楽器シェナイの鋭い音に魅了されたヤングはサクソフォン族で一番小さいソプラニーノを選びました。直ぐに即興を始めましたがヤングのめちゃめちゃ速いソロの下には子供時代の環境ドローンや「Trio for Strings」を思い起こすような完全不動ハーモニーがありました。
 サックス即興に伴奏をつけるためヤングはアンサンブルを作りました。このアンサンブル唯一の目的はヤングの演奏中に静的永遠ハーモニーを伸ばし続ける事でした。一九六三年にできた初期アンサンブルではザジーラがヴォーカル・ドローンを歌い、アンガス・マクライスがハンド・ドラムを叩き、ジョン・ケイルと言う名の若きウェールズ人がヴィオラで維持ドローンを奏しました。(アメリカに着いたばかりのケイルは二年間ヤングと組んだ後ヤングから得た多くのアイデアを原初パンクロックバンド、ヴェルベット・アンダーグラウンドに移しました。)一九六四年にはこのアンプ増幅したアンサンブルはヤングとほぼ毎日リハーサルをし、永久音楽劇場というアンサンブル名になりました。
 しかしこの頃には求めている的確な音程維持能力がサックスには無いという点からヤングはサックスをあきらめ、このバンドに歌手として参加しヴォーカル・ドローンを加えました。感覚麻痺させるような大音量で時には何時間も演奏し、ザジーラのデザインしたトランス誘導型照明設備の中、永久音楽劇場は時間の浮遊だけを目的としていました。これ以上簡素且つ動きの無いミニマリズムを想像するのは難しいでしょう。
 しかしヤングはラリった客を擬似サイケデリックで刺激しようとする現実離れしたヒッピーではありませんでした。長維持音への回帰はそもそも調律理論への新たな興味から引き起こされたものなのです。ヤングは既に「Composition #7」(五度音程を‘長時間維持せよ’)において、二和音コードがドローンのように伸ばされればあらゆる種類の倍音が空気中に漂い、ゆれるような反響音が明瞭な静謐さに付加される事に気づいていました。「The Four Dreams of China」(1962)でヤングは永久音楽劇場のメンバー四人それぞれに一音だけを無限に奏させ、アンサンブル上空にゆらめく倍音探求を押し進めました。
 ヤングは音程を維持し且つ倍音が生まれるようにもっとコントロールしたいと徐々に望むようになっていました。ヤングはバッハの「平均律クラヴィーア曲集」以来西洋クラシック音楽の基礎になっている平均律チューニング・システムに背を向け‘純正調’システムに向かいました。この純正調チューニングは古代ギリシャにおいてピタゴラスが定量化したシステムで多くの非西洋音楽が今日でも使用しているものです。自然状態では全ての音は基本音とそれに共鳴するあらゆる倍音から成り立っています。‘純正調’の場合この倍音に基づいて音階が作られるので、ヤングが自分のチューニングは本当に宇宙の自然反響につながるのだと主張するのも誇張ではありません。‘純正調’追究を一度決めるとヤングは音列主義やコンセプト・アートの時と同じ様に徹底した純真さで集中しました。ある日永久音楽劇場がロフトで練習してる時、亀の水槽のモーターが低音でブンブン鳴っているのに気付きました、たぶん子供の頃に聞いていた変圧器の音と似ていたのではないでしょうか。ヤングはアンプ増幅したモーター音を基本周波数とし、その上に維持する音をメンバーに割り当てました。
 こんなふうにして「The Tortoise, His Dreams and Journeys」は始まったのです。最初に作曲されたのは一九六四年ですがいつも演奏する度に少し違うので三〇年経った今も改定中なのです。この曲が大音量長時間奏される時は、基根音上にふるえるような倍音が鳴り響くのです。(技術の進歩につれてヤングは水槽モーターからサイン派発信機、そしてシンセサイザー、最後はコンピューターと代えていきました。)
 ライリーはニューヨーク滞在中の一九六四年に永久音楽劇場のリハーサルを聞いた時のことを今でも憶えていて、その驚くべき音響は「ガンジス河から太陽が昇って来る」ようでした。ライリーは又ヤングが一九六四年に始めたもう一つのプロジェクト−大作(で今でも改訂中の)「The Well-Tuned Piano」も聴きました。ヤングは何週間もかけてピアノの調律をきちんと‘純正調’に戻しました。西洋人の耳には初めこのピアノの音が狂って聴こえますが何度も聴くうちに今までのピアノ音をはるかに凌ぐ豊かな共鳴倍音が現れてくるのです。
 一九七四年ヤングがローマで「The Well-Tuned Piano」初演するためにベーゼンドルファーピアノが与えられ、一九七六年ラジオ・ブレーメンで三回コンサートをする時には巨大なベーゼンドルファー・インペリアル・グランドピアノが与えられたのです。(後にディア芸術財団がヤング専用としてこの二台のピアノを買い上げました。)ヤングは今でもこの二台のピアノを使い、ザジーラの夢のような環境‘The Magenta Lights’で演奏しています。引き伸ばしてアーチ型にしたアルミニウムにマゼンタや青の多様な色彩が投射されるにつれ陰影がゆっくり色姿を変えていきます。ちょうどアンプを使わないヤングの単純反復和音や旋律が何時の間にか変化していくように。時間という物は無限ですのでヤングは「The Well-Tuned Piano」を演奏するのに休憩無しで六時間かける事も出来るのです。(一九八一年商業レコーディング用に演奏したものは五時間でした。)半即興演奏中ヤングは自ら言う所の音の‘雲’を作り出します。ピアノを速く弾いてこの倍音雲幻影を上空に浮遊させるのです。
 もしこれがミニマリズムであるなら、殊に神秘的な儀式風ミニマリズムと言えましょう。一九七〇年以来ヤング、ザジーラ、ライリーはインド人ヴォーカリスト、パンディト・プラン・ナスの弟子で、実質的には違うかもしれませんが気持ちの上では「The Well-Tuned Piano」はゆっくり展開するラーガと比肩し得るのではないでしょうか。
 灰色の長髪、編んだヒゲ、だらしないローブを着たヤングは導師みたいです。そして「Well-Tuned Piano」演奏行程を説明する時、ヤングは輝くスピリチュアルな言葉で話すのです、

 インスピレーションの極地に波長を合わせようとしてる時、私は創造行為をしないよう心掛けます。結果私は予測しうる限界を超え、音楽は全く予想できなかった方法で私を通して流れ出るのです。「Well-Tuned Piano」を演奏する時はいつもコンサート前に祈ります、インスピレーションが沸くのに十分なだけ私が強く純粋でありますように、インスピレーションが立ち現れますようにと。もちろん技を洗練し磨くために今までと同じ部分もあります。しかしベストなコンサートだった時は自分で本当に想像もしなかったものを演奏しているのです。

 一九六四年春ライリーはサンフランシスコに戻りました。ヤングの音楽から大きな影響を受けたにもかかわらず自分の想像への道がぐらつく事はありませんでした。今ライリーは以前にも増して反復を音楽構造として見るようになっていました。そしてライリーが反復で創ろうとしていた物が21世紀音楽の行く末を変えてしまうことになるとはライリー自身も想像できなかったのです。
 一九六四年十一月サンフランシスコ・テープ音楽センターでライリー曲だけのコンサートが開かれました。曲目の目玉はそっけないタイトルの「In C」で前月完成したばかりでした。一五〇人の聴衆が小さな会場を満たしパイプ椅子に座って演奏者達を三方から囲み、特別なイベントになるだろうとガヤガヤざわついていました。照明が落ち、二台のプロジェクターからカラーライトと抽象パターンが会場中に投射されると十四人の奏者が耳障りでスリリングな「In C」のイントロを弾き始めました。
 ライリーは思い出します、「我々は皆非常に興奮していました、だって何度か素晴らしいリハーサルもしていたし、出て来た音は全員がとても盛り上がるようなユニーク且つ新鮮なものだったのですから。聴衆も熱心に聞いていて、記憶に残る素晴らしい時間でした。」数ヵ月後批評家アルフレッド・フランケンシュタインはサンフランシスコ・クロニクルに熱いレヴューを書きました。「このプリミティブな音楽はどんどん続く…。あなたが自分の人生においてした事と言えばこの曲を聴いて来ただけ、または今聴いている、あるいは今後もこれだけかもしれないと感じる時が有ったとしても、これもまた全く魅力的、エキサイティングで感動的な人生なのです。」今、急にライリーは作曲家として知られるようになっただけでなく、この新しい音楽(直ぐにミニマリズムと呼ばれるようになりますが)が初めて喝采を浴びたのです。
 ライリーは「In C」で今までに無い物を手にしました。アメリカ音楽においてミニマリズムに商業力を付けさせたのが「In C」であり、もっと厳格なヤングの音楽は居残るよう運命づけられているロフトやギャラリーからミニマリズムを引き出しロック・クラブへと連れて行ったのも「In C」だったのです。コロンビア・レコードが1968年に「In C」を発売した時にはミニマリズムはターンテーブルに乗り、このLPはミニマル・ムーブメント初のポピュラーな成功を収めました。
 ライリーは初期サイケデリアつまりコミュニティの儀式や知覚変容が皆の心にあった時代、そしてサンフランシスコ・カウンターカルチャー隆盛がピークに達しようとしていた時代精神に入れ込んでいました。サンフランシスコのロック・シーンにはクスリの雰囲気が蔓延していました。ドラッグによる幻覚歓喜を歌ったジェファーソン・エアプレーンの「White Rabbit」(1967)はほんの一例に過ぎません。今日でもライリーは「In C」が持つ精神変容的特質について話すのが好きで手法的発明についてはあまり話しません。「この音楽は音楽錬金術かマジックみたいなものです。自己感覚を失い音の迷宮に自分を投げ出すような時に、私は音楽に精神的導きを求めています。」とライリーは言いました。
 この音迷宮のユニークな構造こそが後に著しく影響力を持つようになるのです。「In C」のシンプルな一ページ楽譜には音楽モジュール(短いメロディの欠片程度のもの)が五三個書かれています。演奏者はこれらのモジュールを好きなだけ反復します。奏者があるモジュールに飽きれば次のモジュールに移り又好きなだけ反復します。こんな風にして全演奏者(人数も楽器も自由です)は自分のペースでゆっくりとモジュール一からモジュール五三まで奏して行きます。最終的に全員がモジュール五三にたどり着きこの作品は幕を閉じるのです。
 これらの短いモジュールを反復テープループのミニチュアと考えれば、ライリーはスタジオからライブ演奏者へと上手くアイデアを移行させ得たのだと理解できるでしょう。そして又反復モジュールの累積によって音楽テクスチャーがだんだん厚くなっていくという点で「In C」はライリーの‘タイムラグ積算機’とある程度同じだとも言えるのです。
 「In C」では混沌が溢れ出ますがこれはライブ演奏の自由な気質によるものなのです。結局の所奏者がいつ次のモジュールに移るのか分からないので演奏する度に反復フレーズはズレて重なり合うのです。(実際に演奏は一時間未満から数時間までと異なります。)奏者はお互いを聴き半即興で反応しなくてはなりませんが、これにはライリーの愛するジャズに似た所があります。このようにして奏者は楽しい勤行儀式とも言える作品創造に参加するのです。
 「In C」が定期反復を使用していた事だけが後に重要になってくるのではありません。「In C」が強く重ねて主張したのは、新たな音楽にとって調性は発展成長力になれるのだということでもありました。「In C」はまた字義通りのタイトルでした。つまり挑発的且つ堂々とハ長調で書かれていましたが、この時はまだ無調音列主義が新音楽界を支配していたのです。「In C」の動的反復は‘The Pulse’と呼ばれる定続定速ビートによって打ち立てられ、キーボード奏者が高音のドをただ叩き続けてパルスを作ります。調性の明確な原始パワー、ドンドン・パルス、モーターエンジン的反復を再包含することでライリーは知性過剰の閉ざされた新音楽メインストリーム界に挑戦したのです。「In C」がミニマリズムの大衆市場侵攻へのチケットになったのは疑いようも有りません。
 「In C」によって新たな名声を得たライリーは一九六五年秋更なる聴衆を求めてニューヨークに引っ越しました。そこには未だに永久音楽劇場でドローンをしているヤングがいました。ライリーはジョン・ケイルに代わって永久音楽劇場に参加しました。ケイルは徐々にルー・リードとヴェルベット・アンダーグラウンドになるメンバーと過ごすようになりました。ライリーは電気生成低音の上に特定のヴォーカル・ドローンを付け加えました。ライリーはヤングとヤングの音楽を賞賛していましたが、ずっと続くリハーサルにだんだんフラストレーションを感じるようになりました。

 ラモンテは「明日一時からリハーサルしよう」と言い私が午後一時に行っても夕方六時か七時になるまでほとんどリハーサルしませんでした。仮にリハーサルがあったとしても。…ラモンテと作業する時には問題がありました、つまり彼の時間枠は皆と違うのです。したがって彼に着いて行こうとするならあなたは自分の大量の時間を喜んで無駄にしなくてはなりません。なぜなら彼は時間を自分に引っ張り込む巨大な磁場なのです、誰も逃れられないのですから。

 一九六六年夏ライリーは永久音楽劇場から逃れて自分のプロジェクトに専心するようになりました。この年ライリーはジョン・コルトレーンとヤングに影響を受けてソプラノ・サックスを買い新作「Poppy Nogood and the Phantom Band 」(1967)を吹くのに十分なだけのテクニックを独学で覚えました。「Poppy〜」は「In C」のように短いメロディ・モジュールが反復し多層化していく作品です。しかし「Poppy Nogood〜」はライリーがライブ演奏で再創造できるように考えられたソロ作品です。あぐらをかいて床に座り二台のステレオ・テープ・レコーダーを前に置きます。ライリーがマイクを通してサックスを吹くとタイムラグ工程が作動し非常に厚い万華鏡のような音テクスチャーを作り出します。サックスの絡み合う半即興メロディの下にはエレクトリック・オルガンのドローンが流れています。つまる所ライリーの一人バンドで‘Phantom’(幻影)とはライブ演奏とテープ操作が相互作用して作り出すエコーや反響なのです。
 間も無くライリーはこの技法をキーボードに応用したいと思い始め、「A Rainbow in Curved Air」(1968)で成し遂げたのです。この作品は最新の8トラック技術のおかげで明るい音色、終わらない反復、しつこく打ち続けるメロディ・モジュールを積み重ねる事ができ、それにより目も眩むような濃厚さを作り出しました。この作品には同年出たビートルズ「White Album」と同様に、時間浮遊と精神変容のフラワー・ムーブメント・パワーがありました。(そして又一九七〇年代に勃興するかなり低級なニュー・エイジ音楽にも影響を与えました。)ミニマリズムは「Poppy〜」「Rainbow〜」でハイ・カルチャーの音楽コンサートとポップ・カルチャーの分かり易さとの間にある境界線を取っ払ったのです。
 一九六九年四月十一日ライリーのエレクトリック・サーカス登場ほど端的に物語るものはありません。この会場はイースト・ヴィレッジの真中、セント・マークズ・プレイスにあってカウンター・カルチャー系サイケデリック・ロッククラブの中ではトップの会場でした。ライリーはこの日のイベントをやや朦朧とまるで夢を見ていたかのように語ります

 ビートルズの「Sgt.Pepper〜」はまだ人気が有りました、というのはその夜のコンサートで「Lucy in the Sky with Diamonds」が演奏されていましたから。中ではストロボライト、透明シート、プロジェクターを使って照明イリュージョンを作り出していました。若人、クスリでぶっ飛んだヒッピー、新しい音楽をチェックしに来ていたアカデミックな人などが混ざり合った六〇年代サイケデリックの人達でした。

 アシスタントの助けを借りてライリーは「Poppy〜」「Rainbow〜」を演奏しました。彼のソプラノサックスとエレクトリック・キーボードの技巧には驚くべきものがあり、ニューヨークタイムズ誌の主任クラシック音楽評論家のハロルド・シェーンベルクでさえ渋々ながらライリーの持久力を誉めざるを得ませんでした。この時の聴衆にはフィリップ・グラスと言う名の若き(そしてほとんど無名の)作曲家がいて、彼はこの大音量、モーターエンジン系反復、ロック楽器編成の累乗的インパクトに感銘を受けたのではないでしょうか。
 ライリーの商業的大衆性は一九六九年にピークに達しました。「Poppy〜」「Rainbow〜」が入ったコロンビア盤の新作がリリースされたばかりで中には反戦と環境優先の一九六〇年代らしいスリーブが入っていました「そして全ての戦争が終わる。あらゆる武器が非合法化され大衆は喜んで武器を巨大鋳造工場に寄付し、武器は溶かされて金属部分は地球に注ぎ戻される。ペンタゴンは横向きに倒され紫、黄色、緑色に塗られる。」
 一連のレコードのおかげでジャンル名がついたミニマリズムはやっと大衆に届きました。しかし決して野心家ではないライリーはカルフォルニアに戻り徐々に世間の目から遠ざかって行きました。一九七〇年初頭以来ほとんど作曲を止めてしまったのです。作曲の代わりに彼はヤングと一緒にインド音楽を徹底的に研究し、その他の時間はソロ・キーボードの即興に当てました。この時点でミニマリズムのトーチはもう一人の作曲家に手渡されたのです。その人物とは一九六四年サンフランシスコで行われた「In C」初演メンバーの一人、スティーブ・ライヒでした。

第二章スティーブ・ライヒ ミニマリスト
 丸太小屋、鉄道沿いの町、アメリカ西部の広大な土地の話は終わりにしましょう。スティーブ・ライヒはニューヨーク近郊に生まれました。孤立した西部の土地柄がラモンテ・ヤングやテリー・ライリーを形作ったように、ニューヨークの環境がライヒの音楽感受性を隅々まで形成したのです。ライヒ(一九三六年十月三日生まれ)はヤング、ライリーより一歳若いだけですが、ずいぶん後の世代の人に感じられます。それはライヒの初期ミニマル作品がライリー、ヤングから影響を受けていることと、彼らの開拓者的経験よりも都会育ちのライヒが現代性を持っているからでしょう。
 快適な上中流階級だったライヒの子供時代もまた労働階級出身ライリー、ヤングの辛く不安定な子供時代と対照的です。しかし経済的恩恵は家庭生活の不和を補えませんでした。弁護士の父レナードと歌手で詩人の母ジューンはライヒが一歳の時離婚したのです。彼の砕け散った子供時代は、マンハッタンにアパートを持つ父のいるニューヨークと再婚した母のいるロス・アンゼルスを汽車で往復することでした。一番親しくした人はこの往復に随行した女性家庭教師のヴァージニアでした。「結局、父と暮らすことしました。母は仕事に打ち込んでいましたし、当時は父のほうが私に時間を割いてくれていたからです。」と最近ライヒは語ります。
 ライヒの両親はヨーロッパの伝統的ユダヤ人で父方の祖父母はクラコウとブダペスト、母方の祖父母はウィーンとコブレンツ出身でした。音楽的要素は母方から受け継ぎました。母の父親は宝石業を営んでいましたが演芸ピアニストでもありました。ライヒが覚えている最初のライブ演奏は祖父がキーボードでポップスを弾いてる姿でした。母は歌詞を書き(皮肉なことに、彼女の唯一のヒット曲は「愛は簡単なこと」でした。)、上手に歌いました。一九五六年には毎年行われるブロードウェイ・ショウ「New Faces」に出演もしました。「失敗続きの中で唯一のヒットでした」とライヒは言います。
 ライヒの父親は音楽的な人ではありませんでしたが、息子はクラシックに触れるべきだと主張しました。「私がピアノのレッスンを受けることは父の中流市民的観点からみて重要だと考えていました。私が七歳の時、半ば強制的にレッスンを受けさせられ、複雑な思いをしました。そして十歳でやめました。」
 ラーチモントの裕福な郊外に住んでいた十四歳の時、三つの音楽啓示を受けました。バロック音楽、二十世紀音楽、ビバップです。「ピアノを弾く友人と私は一緒にジャズに興味を持ちました。また別の友人はもっとクラシック寄りで私に「春の祭典」とバッハを弾いてくれました。」これらの音楽はライヒに強い印象を与えました。「バロック系音楽は聞いたことがなかったので不思議なスタイルを聞いてる感じでした。ベートーベン「第五交響曲」、シューベルト「未完成交響曲」、ワーグナー「マイスタージンガー序曲」などなど中流階級の人が好きそうなものを聞きました。バッハはバロックからもっと古い音楽へと私を導きました。歴史的に言うとバッハは過去へのシグナルでした。しかしストラヴィンスキー「春の祭典」は未来へのシグナルでした。」ブロックの塊で殴られたような衝撃をライヒに与えました。「二十世紀音楽は全く聴いたことがありませんでした。まるで誰かがドアを開け『おまえはずっとここに住んでいるのに、この部屋が目に入っていないぜ』と言ってるみたいでした。こんな音楽が存在するとは信じられませんでした。
 しかし最も大きな影響を受けたのはたぶんビバップからだったのです。チャーリー・パーカーをもちろん評価していますがライヒの創造力を魅了したのはドラマーのケニー・クラークでした。ピアノをやめて四年が過ぎていたライヒはドラムを勉強し始めました。父が、今日ニューヨーク・フィル主席ティンパニ奏者になっているローランド・コーロフにレッスンを頼みました。スネア・ドラムの技術とスティック操作を集中的に学び、授業が終わると地下室に行って誰にも邪魔されずに練習したと思い出を語ります。すぐにライヒとピアノの友人はビバップのバンドを組み、後に五人編成になりました。(ライヒは知りませんでしたが、ほとんど同時期にライリーとヤングもまた遠く離れたカルフォルニアでジャズバンドをしていました)
 早熟だったライヒは一九五三年に十六歳でニューヨークのイタカにあるコーネル大学に入学しました。一時的にですが音楽の興味がズレていきました。週末はバンドのドラマーとして男子学生クラブ・パーティやブラック・エルクの集会を盛り上げました。(「ジョージ・シェアリングとマイルス・デイビスの中間みたいなのをやろうとしていました」ライヒは追想します。)しかし彼のテーマは哲学でしたので、卒論は数年前にコーネル大に訪れていたルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインの後期作品についてでした。
 音楽史教授ウィリアム・オースチンの励ましが無ければ、ライヒは音楽研究の道を進まなかったかもしれません。オースチン教授は通常の音楽史に二十世紀クラシック、非西洋音楽、ジャズも取り入れるユニークな人物でした。「秋学期はグレゴリア聖歌からバッハが死ぬまで、いきなり飛んでドビュッシー、ストラヴィンスキー、バルトーク、シェーンベルク、そしてジャズでした。教授は二十世紀クラシックの固定テンポ、対位法への興味、ダイナミックの無さは過去への回帰であると考えていました。」
 オースチンの考えは十代だったライヒの直感を強めることになりました。なぜバッハ、ビバップ、ストラヴィンスキーに強く惹き付けられたのか、ライヒは理解し始めたのです。その後も彼は定続パルス、明確な調性、簡素な対位法を好み続けることになるのです。現在でもライヒは言います「信じられないかもしれませんが、私はハイドンからワーグナーに至る間の音楽に全く興味がありません。」
 コーネル大卒業が近くなるにつれライヒは作曲に興味を持ち始めましたが、転向するには遅すぎるかもと感じていました。

 大学三年、四年と緊張は高まって来ていました。ハーバード大哲学科に院生として入学希望を出し、受諾され、もうハーバードに行かなくては、というまさにその時作曲を学ぶためにニューヨークに行くことにしたのです。ですから私が心を決めた時はもう最後の大博打だったのです。オースチン教授は励ましてくれました。父は「お前は狂ってる。そういう道には遅すぎるだろ。産業労働関係を研究してはどうか。」と言いました。

 ライヒの父親は哲学の道にも反対していたので音楽の方は言うまでも無いでしょう。私は既に許されざる物に沈み込み、とうとう地球から落ちてしまったのです。
 コーネル大を卒業したライヒは1957年夏ニューヨークに戻りました。秋までにはホール・オーバートンに師事し作曲を学び始めました。オーバートンはジャズ・アレンjジャー兼クラシック作曲家でビバップのピアニスト、セレニアス・モンクとそのバンド用に多く譜面を書いていました。しかし授業はヒンデミットの教科書とバルトークの「ミクロコスモス」を中心にした従来型のものでした。
 ライヒはすぐジュリアード音楽院に入学し(ラ・モンテ・ヤングがUCLAに来た時、サックスを止めたように)ジャズの演奏を止めました。ライヒは友人のアーサー・マーフィーと当時たくさんあったジャズ・クラブにホレス・シルバー、アート・ブレイキー、マイルス・デイビス、チャーリー・ミンガスを聞きに行ってましたが、ジュリアードでは仕事漬けでした。つまり作曲です。
 ライヒは二人の保守的アメリカ人作曲家、ウィリアム・バーグスマとヴィンセント・パーシェッティを教官として卒業研究に取り組み始めました。ジュリアードが調性アメリカを回顧する砦だった当時ライヒは授業外でピエール・ブーレーズ、カールハインツ・シュトックハウゼン、ルチアーノ・ベリオの新しくホットな音列作品を耳にしました。「巨大な車が迫ってくるのです。中に沢山の人が乗ってて、私は中で何が起きているのかとても興味がありました。この車のはウェーベルン・シュトックハウゼン・ブーレーズという名前でした。もちろん私は乗り込みました。」
 過去にさかのぼって一九二〇年代アーノルド・シェーンベルクは新しい作曲方法を開発しました。これが無調音楽をシステマティックに創り出す十二音技法です。曲の全要素は十二音(「音列」)を並べたもので、その音列は曲の間中固定されたままです。十二個の音が終わるまでに同じ音を使ってはいけません。使ってしまうと調性を感じさせてしまうからです。この作曲技法ではまだ数学的でないとばかりに、バビット、ブーレーズ、シュトックハウゼン、ベリオのような第二次大戦後の作曲家はシェーンベルクの弟子アントン・ウェーベルンの先導に続いて十二音技法をピッチ以外の要素にも応用し始めました。数列が音列だけでなく強弱やリズムまで決定してしまうのが新トータル・セリアリズムなのです。ライヒや仲間たちはこのような超合理主義化のなかにさらされていたのです。ジュリアードに残した最終作品がライヒの初音列作品でした。弦楽オーケストラ曲で十二音列を使っていました。「私がこの技法で出来た事は、音列を転回させたり、装飾したりせず、ただ反復させるだけでした。私にはこの曲がこう聞こえました『いいかい、もしこの技法を使っていくつもりなら、これをやり続けなくてはならないよ。』と。」
 ある意味ライヒは音列を静止感のために使っていました。しかしジュリアード時代に一度聞いたラモンテ・ヤングの「Trio For Strings」ほど極端に静止的ではありませんでした。「「Trio For Strings」を聞いた時はヤングもフィリップ・グラスと同じように狂ってしまったかと思いました。」
 ライヒとグラスの仲の悪さを考えると、彼らが同じジュリアードの大学院生とは思えないほどです。しかし二人は同じ授業を受け定例作曲フォーラム会議に参加していたのです。たぶん長年反発したせいでしょうが、グラスと会った時のライヒの記憶はネガティブです。「フィリップと私が会ったとき瞬間的に妙な雰囲気が流れました。私の彼女は前にグラスと付き合っていたので、グラスから良い反応を得るのは最初から難しくなっていました。」一九六七年ニューヨーク、今度は歴史的重要性を持って二人の道は再び交差することになるのです。いっぽうライヒは単位を取る事無くジュリアードを去りました。一九六一年初め、バルチモアに行き内内に結婚し新たな自由にあこがれていました。

 父とは没交渉になっていました。父がニューヨークに存在しているのはたとえ留守にしていても何となく居心地が悪かったのです。丁度、ジャック・ケルアックが知られるようになってきた時期でサン・フランシスコは東海岸を離れた人とエスタブリッシュメント達のメッカでした。人生のほとんどをニューヨークで過ごした私としてはサン・フランシスコがとてもロマンティックで魅力的に感じられました。だから多くのアメリカ人がそうしたように私達は西に向かいました。

 サン・フランシスコに着くとライヒは、卒業制作を続ける手段を探しました。結果としてオークランドのミルズ・カレッジを選びましたが、その唯一の理由は「ベリオが授業をする予定だと聞いて、それだ。」と思ったからでした。
 一九六〇年代初期、イタリア人作曲家ルチアーノ・ベリオはブーレーズ、シュトックハウゼンと同じ音列主義者と言われていました。しかし彼は純粋理論家からほど遠く、三人の中では典型的イタリア人らしく最も叙情的でした。ライヒはベリオの電子変調されたスピーチを使った初期作品に興味を持ち、ベリオがミルズに来た時彼の音列世界に飛び込みました。(別の客員教授、フランス人作曲家ダリウス・ミヨーの授業も受けましたがライヒに言わせるとミヨーは「老いて、弱気でただ思い出話をしてるだけ」でした。)
 ミルズ・カレッジ二年間に三度ベリオの授業を取りました。授業ではウェーベルンとベリオ自作品に触れましたがメインは十二音技法でした。「非常にエキサイティングでした。大犯罪者と一緒にその犯行現場にいる感じです。」音列主義についてその本人から直接聞いているのだから、ダルムシュタットに行かなくてはと焦がれることもありませんでした。」
 ライヒはふざけて「犯罪者」と言いますが、この冗談は最も重要な真実を隠してしまっています。ライヒは音列主義が提案するシステマティックな作曲アプローチを評価しますが、自身はどんな無調音楽も嫌いだとすぐ気づいたのです。音列主義は、ヒッピー前夜の興奮に満ちた一九六〇年代初頭のサン・フランシスコというライヒの環境にはもう時代遅れなのです。「第二次世界大戦後の爆撃に曝され粉々になった大陸を描写したい場合、「シュトックハウゼン」「ベリオ」「ブーレーズ」はとても正しい語です。しかし車にはテール・フィン、チャック・ベリーにハンバーガー大量販売の一九四八、五八、六八年代に生きるアメリカ人にとって、ウィーン学派のように陰鬱な不安が近づいて来ているふりをすること自体が嘘になります。音楽的嘘に。」と一九八七年エドワード・スティックランドに述べています。他ではもっとはっきり「一九五〇年から八〇年、アメリカを席巻したジャズとロックのサウンドを無視できません。このジャズとロックは洗練され、濾過され、拒否されたり受け入れられたりしましたが決して無視されてはなりません。それでも無視すると言うなら、あなたは無知な現実逃避者でしょう。」
 ライヒは現実逃避者ではありません。彼もヤングやライリーのようにコルトレーンのモーダル・ジャズに、その長く静かな和声の上に展開する熱狂的即興に夢中になりました。コルトレーンの演奏を聴きにサン・フランシスコのジャズ・ワークショップに行く一方でモータウンから広がり始めていた反復リズムを使うニュー・ソウルも聴き、そしてまたベリオが支持する構造の複雑性は馬鹿げていると感じ始めていたのです。「昼はミルズ大学で夜はジャズ・ワークショップに通う日々でした。誰も演奏できないような異常に複雑な作品(頭の中でさえ聞けているのか不確かな)を作ってる連中と、ただステージに上がってプレイする一人の男との間には圧倒的な差があります。
 ライヒがベリオと対立するのは当然と言えましょう。ライヒがジュリアード時代に書いた12の音列を転回させずに反復させた弦楽オケの譜面を見たベリオは皮肉を込めてですが、ライヒの背中を押すようなコメントをしました。

 この一つの音列を何度も何度も繰り返して静的音響を生み出す私のやり方にベリオは気づいて言いました、「調性音楽を書きたいのなら、書いたらどうですか。」私は自分のしたいことを無意識の内にしているのが分かっていたので、このベリオの意見は良い助言でした。思い出すことがあります。初めてジュリアードに行った時十二音技法であれ、自由無調であれ標準として教えられた無調モデル音楽と、例えばジョン・コルトレーンのような一つか二つのコードから成る音楽との間に優位性ははっきりしていました。私はいつも一つの調性を持つ音楽のほうに感動しました。

 しかしライヒがミルズ大で修士号を取った1963年、音楽学究世界にはどんな調性音楽も書ける場所がありませんでした。したがってライヒは大学職を探さずにフリーの作曲家として生計を立てることにしました。まず地域の音楽学校で教えましたが「やっかい」で「給料が安い」ので、やめてより自由な時間が取れて払いもいいタクシー運転手になりました。
 ミルズ大の最終学期にライヒはサン・フランシスコ・マイム一座に加わりました。彼によるとこの一座は「一種のゲリラ・ストリート・シアターでした。まだそういう用語はありませんでしたが。マイム一座はサン・フランシスコ教会地区の非宗派系教会に本部があり、本部や街中の公園でパフォーマンスしていました。ライヒは思い出します、

 彼らは携帯ステージを組み立て、コメディタイプの劇を上演していました。配役に道化師、ピエロ、ドクターがいましたがテーマはいつも政治的で現代的なもので、また素晴らしく自由闊達な雰囲気がありました。また折に触れて会場でやるようにもなり、演劇的イヴェントやライト・アップも作られ始めていました。マイム一座の場合観客は私がいつも仲間に入りたいと思っていたアーティスト達でした。彼らはミルズ大学で“午後四時作曲家会議に出席”してるような人々ではなかったのです。

 マイム一座でウィリアム・ワイリーのセットを使った‘前駆ダダ風反演劇’「Ubu Roi」(1963)に下手なヴァイオリン、クラリネット、カズーを組み合わせた非アカデミックな伴奏曲を書きました。このカズーは本当に大きなコーン型の筒で地元電力会社Pacific Gas & Electricが建設現場に近づかないよう 警告音として鳴らしていたものです。後にライヒはマイム一座が陰険な人種ステレオタイプを演じる偽吟遊詩人劇「Oh Dem Watermelons」(1965)にスティーブン・フォスターの曲を再構成しました。
 六二年には既にテープを使った実験を始めており、テリー・ライリーと同じく、反復するテープ・ループに強く惹きつけられました。六三年マイム一座で知り合った映画監督ロバート・ネルソンとコラボレーションし映画『The Plastic Hair Cut』に『Great Moments In Sports』というLPを素材としたコラージュ系サントラを作りました。ライヒが次に作った「Livelihood」はもっと前衛的でした。マイクを自分のタクシーに隠し、密かにお客さんの会話を録音したのです。ばらばらの会話、自動車の音、ドアを閉める音を高速コラージュした三分テープ作品が出来上がりました。
 作曲家は自前のアンサンブルで演奏すべきとずっと思っていましたが、しかしもしテープ編集スタジオにこもってしまえばライヒがライブ演奏することも無かったかもしれません。ミルズ大を卒業する前、ライヒはヴァイオリン、チェロ、サックス、ピアノ、自身のドラムで構成する即興グループを作りました。(メンバーの二人は後に独自のキャリアを積んで行きます。キーボードのトム・コンスタンテンは後にグレイトフル・デッドで演奏し、サックスのジョン・ギブソンは今日、フィリップ・グラス・アンサンブルのメンバーです。)
 一見したところこのグループの即興はアカデミック無調とフリージャズの奇妙な混合で、ライヒ本人でさえこれには失望しました。「何も書かれてないと何も生まれない、と思いました。私達はこれまでよくあったような即興はしていませんでしたから。もっと曲を構築すると、より良い結果が出ました。」と思い出しながら言います。一九六三年十一月ライヒは音高だけでリズムは書かれていない図形楽譜作品「Pitch Charts」を使ってバンド練習をしてみました。
 一九六四年秋ライヒの即興グループがマイム一座で演奏した時、不快に感じたある有力人物が休憩中に帰ってしまいました。その人とはライヒのバンドに良い思い出を持たないテリー・ライリーでした。「私には好き勝手に演奏してるように見えました。全く展開しないし、パーカッションがうるさいので後半がどうなるか座して待つ必要は無いと思ったのです。」
 サン・フランシスコのニュー・ミュージック界で既に名士だったライリーが予期せず帰ってしまったことにライヒは気づきました。翌日ライヒはライリーのスタジオに面会に行きました。「私はライヒの家から道を下ったところに住んでいました。でライヒはピアノを置いていたガレージにやってきて『昨晩はどうして途中で帰ったのですか?』と尋ねました。私はライヒに会ったことはなく、初対面でびっくりした後、座って話し合いました。彼と会えてとても楽しかったです。」
 ライヒはその時の状況を覚えておらず、面会の時の話は「ちょっと嘘っぽい」と言っています。しかしライヒは同じ秋のある午後に聴いたライリーの音楽を忘れはしませんでした。それは53個の反復モジュールだけが書かれた一見やさしそうに見えるたった1ページの楽譜の音楽「In C」でした。ライリーがラモンテ・ヤングの「Trio For Strings」にぶっ飛んだように、今度はライヒが「In C」にぶっ飛びました。ライヒは即座に「In C」初演準備のために自分のグループを使ってくれと申し出ました。
 「In C」のリハが始まるとライヒは「本当に誠実な支援者で沢山助けてくれました。」とライリーは思い出します。ライヒのアドヴァイスが「In C」の成功を決定的にしたのです。ライヒによると「リハーサル中の一つの問題は、皆のリズムがばらばらになってしまうことでした。ドラマーの名手だった私がこう言いました『リズムを維持するために誰かがドの音をただ打ち続けるのはどうだろう。』だから私が貢献したのはパルスなのです。で、その役を当時の私の彼女がピアノでやりました。私は上げた以上の物を貰いましたが、私がこのアイデアを上げたのも確かな事なのです。」
 実際ライヒが貰った物は、それまでの無意味な作曲人生に指針を与えるようなものでした。「In C」は明確な調性と定続パルスが真に新しい音楽の基盤になりえることを示しただけでなくループのアイデアで作曲上何を成し得るかをも示しました。「In C」は全演奏者が最初のモジュールをまるで幾つかのループが一列に並んでユニゾンしているように同時に始めますが、曲が進むにつれて徐々にズレて行きます。ライヒは「In C」初演に非常に影響を受け、その反復構造を使った作曲をしていこうと決めました。「私はスタート地点として反復を使い、その私の行き着く先を見たいと思いました。最初の結果が「It's Gonna Rain」でした。」
 一九六四年秋テープレコーダーを持ってサンフランシスコのユニオン・スクウェアに出向き、ライヒは若い黒人説教師ブラザー・ウォルターが差し迫る黙示録大洪水に警告を放っている声を録音しました。ブラザー・ウォルターの生まれつきメロディアスな声がスピーチ・テープ作品にはぴったりだと分かっていましたが、どう使ったらよいか確信が持てなかったのです。ライヒは最初に「Liveliwood」に沿ったコラージュ系にしてみましたが、その時「In C」が新しいアプローチを提供したのです。
 ブラザー・ウォルターが「It's gonna rain」と唱える全く同じテープ・ループを二つ作り別々のテープ・レコーダーにかけました。安いテープ・レコーダーの不調のせいでしょう、二台のレコーダーが同じフレーズを連続反復しているうちに徐々にお互いがズレてくる事に気づきました。(ライヒはこれを「位相ズレ」と言います)
 ライヒ初の完璧な作品「It's Gonna Rain 」(1965)がこうしてできました。ブラザー・ウォルターの二つの同じスピーチ・ループがユニゾンで始まり、片方がとてもゆっくりずれていくのです。最終的にライヒはループを8台まで重ねるに至り、予想もしなかったリズム・コンビネーションが生まれ、最後にはスピーチの意味が取れなくなるほど分厚いテクスチャーが現れます。「この漸次位相変容工程を聴くにつれて、これは音楽構造の究極型だと自覚しました。この工程は全く同じ二つの物の間の多くの関係を経る方法であると衝撃を受けました。これは連続して続く継ぎ目の無い音楽工程なのです。」
 単旋律でメロディアスなたった三単語からなるこの十七分の曲はミニマル音楽の象徴でもありました。ライヒが「位相ズレ」手法と呼ぶ、このはっきり聞き取れる厳格な構造は一九六五年から七〇年初頭まで主要な作曲手段になりました。
 この「位相ズレ」に影響を与えたのは間違いなくテリー・ライリーです。しかし「In C」における動的反復と脱同期化はまだ陽気な混沌状態のままでした。このライリーの手法をライヒらしい一途なやり方でシステム化し作曲の根底にしました。「It's gonna rain」はテープ・スタジオでのみ作り得る極端にメカニカルな漸次位相ズレ行程であり、その中の一音一音まで統御していました。
 今日ライヒは素直にライリーの影響を認めています。「ライリーはラモンテの影響をはっきり認めていました。私もライリーの影響を認めます。長い目で見ればそのほうが安心して眠れるでしょう。」しかし当時ライリーは怒っていて、一九六五年一月ライヒがサンフランシスコ・テープ音楽センターで「It's Gonna Rain」初演(今回ライリーは途中退場しませんでしたが)その時にできた傷が癒えることは決して無かったのです。ライリーは思い出します「当時私はライヒにパクられた気がして不機嫌でした。自分でやり始めたことが足元から全て漏れて行ってしまう感じです。おわかりでしょうが、若いアーティストは自分が一生懸命やったことで名声を得たいものです。それで口論もしました。当初は私にとってキツかったですね。」
 一九六五年九月ライヒはニュー・ヨークに戻りました。(偶然ですが一ヵ月後ライリーもニューヨークに来ました。)「六三年に妻と離婚し不幸な時期でした。「It's gonna rain」はただの抽象的音楽作品ではなく私の内的人生も表していました。もし‘雨が降りそうな’内的状況なら、なんとかしなきゃと思うでしょう。私はサン・フランシスコから出なくてはと思いました。」
 ライヒはマンハッタンに着き、ダウンタウンにある以前ラモンテ・ヤングが住んでいたところからそう遠くなく、ほったらかしにされた産業用建物の無人地域のロフトに住みました。しかしやはりサン・フランシスコ時代と同じくらい不幸であると感じていました。音列主義を説く上流音楽派からもジョン・ケージを崇拝する下流実験派からも離れ孤立していました。以前良好だったライリーとの関係も緊張をはらみ更なるコラボレーションはありえませんでした。またライリーがすぐに参加したヤング主催の永久音楽劇場のドローン音楽を軽蔑してもいました。
 ライヒが、ヤングやグラスを育てたミニマル画家やミニマル彫刻家も含む下流ヴィジュアル・アーティストのコミュニティとうまが合ってつるんだのも当然でしょう。ライヒは自活するため沢山のアルバイトをしました。「ニューヨーク大でソーシャル・ワーカーをしました。ドアのベルを鳴らして子供が家にいるか、誰か追跡調査しているか聞いて廻ったものです。またタクシー運転手は危険すぎたし、郵便局員にはウンザリでした。」
 ニュー・ヨークに戻って数ヵ月後に来た作曲依頼が気晴らしになったようです。白人店主殺害容疑で逮捕・有罪判決を受けた十代の黒人グループ「Harlem Six」再審募金の慈善事業が計画されていました。その慈善イベントでの演奏用に「Harlem Six」団にインタヴューした数十時間のテープを編集したスピーチ・テープ作品を作ることもいとわなかったことでしょう。
 いとわないどころではありませんでした。再審の根拠は、「Harlem Six」団が拘留中殴られていたという事実です。メンバーの一人ダニエル・ハムはどのように当局を説得し留置所から病院へ自分を送らせたのかという話をライヒはテープ録音しました。「オレは傷口を開いて血を流さなくてはならなかったよ、ヤツらに分からせるためにさ。」ライヒはここから‘Come out to show them'を取り出しこのメロディアスなフレーズを「It's gonna rain」の時と同じように曲の素材として使いました。
 十三分の「Come Out」(1966)はハムのスピーチを厳格な位相ズレ工程に通した作品です。同一の二本のテープ・ループがユニゾンで始まり繰り返されるうちに片一方が徐々にズレてきます。後に重ねるテープは八本にまでなりました。全体構造は「It's Gonna Rain」と同じでしたが技術的に更に洗練され、情感的には黙示的前作よりも冷たい物でした。実際「Come Out」はその後に都市文化アメリカを巻き込む過酷な人種闘争を的確に反映していたのでした。作家エドワード・ストックランドはこう言いました。「「In C」は愛し合う集団の音楽みたいだけど「Come Out」はワッツ暴動(注一九六五年 の八月十一日にカルフォルニア、ワッツ地区で始まった暴動)が間近な所にあることを示していました。」
 「Come Out」はミニマル経済性の傑作です。つまり五個の単語とそれをズラす位相工程だけなのです。しかしライヒはテープ作曲にフラストレーションを感じていました。後にこう言っています。「一九六六年はウンザリした年でした。研究所に住み込んでるマッド・サイエンティストみたいな気がしていました。「「Come Out」で見つけた位相ズレを捨て去りたくなかったのですが、これをどうライブでやっていけばいいのか見当もつきませんでしたし、また器楽曲を書きたくてたまらなかったのです。」
 一九六六年末、自分で弾いた短いピアノフレーズのテープループを作り、テープを走らせたまま同じメロディをキーボードで弾いてみました。同一パターンをユニゾンで始めて一方が少しずつ前にズレ出るという機械では簡単に出来る事が生の演奏者にも出来るか、ライヒは挑戦してみたのです。「驚いたことに、機械の正確さには及びませんが、かなり近い線まで近づいたのです。しかもこの新しい演奏を非常に満足し楽しみながらです。」
 次のそして最後の段階は二人のピアニストがテープに全く頼らずにこの離れワザをやってのけるかどうかです。ジュリアード大の旧友アーサー・マーフィーと二台のキーボードを使って、ライヒは自身初の演奏用位相ズレ曲「Piano Phase」(1967)を完成させました。この曲は二人のピアニストが十二個の音からなるパターンをユニゾンで始めます。一方が非常にゆっくりとテンポを上げて行き、一音符分先に出たところで新しい和音が生まれしばらくそのズレのままリピートします。再びテンポを上げ始めもう一つ分つまり音符二つ分先に出ます。このテンポ上昇と反復を十二回繰り返すと一巡したことになりユニゾンに戻るのです。
 「Piano Phase」よりもっとミニマルでもっとエレガントなものなどあるでしょうか。六つの音を使った十二個のワン・フレーズは全て十六分音符で作られ音程やリズムや強弱の変化はありません。そしてその二十分に及ぶ位相ズレ行程は常に聞き取ることが出来ます。ライヒの厳格な知性によって、「In C」の反復ミニマリズムは音列主義に匹敵するようなシステム化を成し遂げたのです。「Piano Phase」よりも冷徹厳格な器楽曲を創造できましょうか。
 一九六七年三月、ライヒは当時ミニマル・アートやミニマル・彫刻の先導的展示会場だったパーク・プレイス・ギャラリーでコンサートをしました。ここはポーラ・クーパーが運営し、ソル・ルウィットやロバート・モリスといった芸術家を紹介していました。ライヒ・アンサンブルの出演はミニマル芸術とミニマル音楽の結びつきを強めたに違いありません。また、もしこの音楽を好意的に聞いてくれる人がいるなら、それは仲間の作曲家ではなく、ダウンタウンのヴィジュアル・アーティストであろうとライヒは思いを強くしました。
 ライヒ&ミュージシャンの初期と言えるライヒ・アンサンブルにはアーサー・マーフィー(key)とジョン・ギブソン(sax)がいました。ライヒは思い出して言います、

このギャラリーはニューヨーク大学のすぐ近くにあり四千平方フィート、高さは二十フィートくらいある巨大な会場でした。ここで我々は‘ママ見て、テープじゃないよ’コンサートを開き初めて「Piano Phase」をライブ演奏しました。このパーク・プレイス・ギャラリーはアート界の巣窟だったので四百〜五百人くらい多くの人が集まりました。ラウシェンバーグとその仲間達もいましたし、ジュドソン・ダンス団もいたし多くの画家や彫刻家がいました。逆に十四番ストリートより上に住んでるような作曲家達はほとんどいませんでした。

 ジュリアード時代のある知人が演奏会に来ていました。その人は数年間パリで音楽研究しパリから戻ってきたばかりのフィリップ・グラスでした。ライヒはその日の事を覚えています。「コンサートの後、彼はやって来て『凄いよ。一緒にやらないか?』と言い、私は『素晴らしい。会えて良かった』と答えました。私達は一緒に彼の曲を演奏し批評したりしました。」
 お互いの曲のアレンジが上手くいったのでライヒとグラスは自曲を演奏するアンサンブルを結成することにしました。ライヒのグループとグラスともう一人から成るこのアンサンブル(正式名称は無かったが)は両者にとって素晴らしい物でした。ライヒとグラスは一九六八年フィルムメーカーズ・シネマテーク、一九六九年ニュースクール&ホイットニー美術館、一九七〇年グッゲンハイム美術館でコンサートをしました(一九七一年の合同ヨーロッパ・ツアーまでこの協力関係は続きました)。これらの会場はいわゆる音楽用ホールではありません。メインストリームの会場から締め出され、保守的な作曲家や批評家から散々けなされ、ミニマリスト達はギャラリーや美術館に救いを見出しました。
 金に困った二人はチェルシー・ライト引越しセンターを立ち上げ家具の引越しを始めました。「グラスはチェルシーの八番街近く二三番ストリートのアパートにジョアン・アカラーティスと子供と住んでいました。彼は鉛管工をしていましたが我々は引越しのほうが良いだろうと決断しました。かれがボロボロの車を入手したり、または二人で車を借りたり、一時はヴィレッジ・ヴォイス誌にチェルシー・ライト引越しセンターの広告を出したりして、荷を乗せ過ぎたいまいましいソファーをとりにロウアー・イースト・サイドのエレベーターの無いアパートの五階までいったりしました。」
 一方ライヒは作曲キャリアを速やかに積んで行きました。一九六七年末「Piano Phase」に続いて「Violin Phase」が完成しました。これは楽器を二台から四台に増やし、四番目のヴァイオリンが位相ズレ工程で生まれる意外なメロディの連結を弾き示すのです。(この曲は四人のヴァイオリニストで演奏できますが、実際には一人の奏者と三台の録音トラックで演奏されます。)一九六八年ライヒは位相ズレから離れて柄にも無くコンセプチュアルな「Pendulum Music」を作曲しました。吊るした四台のマイクが上に向けた四台のスピーカーの上を(ブランコのように)揺れるもので、急速なパルス風のフィードバックが徐々に動きの遅い長いドローンへと変化する音楽でした。
 一九六九年ライヒはテクノロジーを使ってもう一つ遊んでみました。ニュージャージー・ベル電話局技術者の助けを借り、ライブで使えて位相ズレ行程をシュミレートする「位相ズレ・パルスゲート」という大げさな名前の機械を作りました。一九六九年五月ホイットニー美術館コンサートでライヒはこの機械を使って「Pulse Music」を演奏しましたが結果は今ひとつでした。「硬すぎて非音楽的でした。この時、私はもう電子音楽にはかかわりたくないとはっきり思いました。」
 グラスとライヒが初めてアップタウンに登場したホイットニー美術館コンサートはミニマリスト音楽普及にとって非常に画期的事件でした。聴衆は石床に座り、ライヒやグラスのアンサンブルは中央の円形ステージで演奏しました。会場にはAnti-Illusion展示会のミニマル作品が置かれ、その中にはリチャード・セラの記念碑的彫刻もありました。展示会カタログにはライヒの高らかなミニマル宣言「漸次過程の音楽」が載っていました。
 この宣言書でライヒは構造の明確さと聴取性の重要さを強く主張しました。(位相ズレといった)“工程”それ自体が内容であるような曲を作ることでライヒはこの明確性を獲得したのです。この厳格な音楽工程ワールドには、隠された装置や即興の余地が全く無いのです。そして作曲家がこの曲を開始すれば、客観的かつ非個人的に展開していくのです。つまり「音楽工程を見出しその工程に乗せる音楽部品を作曲する喜びはありますが、一旦工程を確定し素材を流し込めば曲は自立的に進んでいくのです。」
 ライヒのこの発言は確かに「Four Organs」(一九七〇年一月完成)のような作品に要約されています。この作品でライヒは最も厳格な工程を作ったのです。「Four Organs」を究極ミニマル作品と言っても過言ではないでしょう。「Four Organs」は位相ズレ作品ではなく、一和音漸増工程作品です。短いパルスから長い音塊へと徐々に変化するのに約二十分かかる曲です。その間、音程・音色・強弱・ハーモニーは(変化せず)固定されたままなのです。四人はロック系の小さい電子オルガンの前に座り、五人目は両手にマラカスを持ってただ振り続け、オルガン奏者が拍を数えれるようにします。
 「Four Organs」の音自体はひどく退屈に聞こえて面白くないかもしれませんが、ライブ演奏では予想外理屈抜きのスリルに満ちています。ゆっくりと伸びていく和音を拍を間違えずに弾くという凄く難しい演奏を観るのはとても興奮するものです。その和音にはロック・ミュージックでよく使われる重低音の響くドミナント11thが使われているのです。まぁしかし、普通のクラシック音楽に慣れている人はそう楽しめないでしょう。
 実際 「Four Organs」は(ライヒの愛する)ストラヴィンスキー「春の祭典」初演時を想起させるようなブーイングを巻き起こしたのです。指揮者マイケル・ティルソン・トーマスが電話してきた運命の日をライヒは今でも面白おかしく言います「彼は私に言いました『ボストン響用になにか曲はある?』『もちろん、新作「Four Organs」があるよ』と答えました。」ライヒは笑いながら「他に何があるって言うんですか」と言います。
 「Four Organs」よりもシンフォニックじゃない曲を想像するのは難しいでしょう、実際のところオーケストラ作品でさえないのですから。しかしライヒはこの曲でコンサートホールデヴューしたのです。一九七一年十月ボストンシンフォニー・ホールでモーツァルト、バルトーク、リストのオケ曲に並んで「Four Organs」がプログラムに載りました。しかし大騒ぎになったのはボストンの人々がニューヨーク・カーネギーホールに来た一九七三年一月でした。指揮者マイケル・ティルソン・トーマスは演奏中の怒鳴り声や曲を止めようとしてステージの角を靴で叩く老女や「もう十分、分かったよ」と叫びながら通路を走る客の怖さを今でも覚えています。常に反ミニマル批評家ハロルド・シェーンベルクはニューヨーク・タイムズにレヴューを書きました「聴衆はギンギンに熱した針を爪の間に差し込まれたみたいでした。しばらくすると曲を止めようとする怒鳴り声と曲を早く終わらせようとする拍手が混在し、最後にはひどいブーイング。賞賛の声もありましたが。少なくとも超前衛曲が演奏された時以上の興奮があったことは確かです。」
 しかし七三年にはもうライヒにとって「Four Organs」は過去期の作品になっていたと思われます。なぜなら七〇年夏アフリカに行って以来彼の音楽は完全に変わってしまったのですから。
 六二年以来ライヒは西アフリカ音楽が好きでした。ベリオがカリフォルニアのオジャイ・フェスティバルで作曲セミナーを開いた時にライヒも参加してモダニズム寺院への長旅を始めました。そのオジャイ・フェスでライヒは作曲家兼哲学者ガンサー・シューラーの講義を聞きました。ジャズのルーツとして西アフリカのドラムを調査していたシューラーは自著『Early Jazz』を使っていました。シューラーはライヒに更なる研究にはA.M.ジョーンズ著『Studies in African Music』が良いと薦め、ライヒは後にこれを購入し熱心に勉強しました。
 70年に入りライヒはより真面目に研究を進めました。ガーナ人ドラマーのアルフレッド・ラゼプコがコロンビア大で教えてるのを知りライヒは会いに行きました。本当にアフリカ・ドラミングに興味があるなら、ガーナ大に入学希望の手紙を出すべきとラゼプコはライヒに助言しました。数ヵ月後ライヒはアクラ(ガーナの首都)に飛びました。
 夏中滞在しようと思っていましたが病気になってしまい五週間で引き上げることになりました。ライヒはこの時のことを鮮明に覚えています「ガーナの先生の村にいてバカみたいにサンダルを履いて蚊に両足を百回も噛まれてマラリアになりました。しかし彼らの音楽には津波にぶち当たったみたいに圧倒されました。」

 朝起きて朝食を取ってからガーナ・ダンス・アンサンブルについて行きます。授業はエウェ族の主任ドラマー、ギデオン・アロウィエが担当しました。授業ではガラガラやゴンゴンを使ってまず先生があるパターンを叩き、続いて私が叩きます。先生が「いや少し違います。」と言う時はもう一度演奏します。私は授業を録音して暗記しました。先生はたいていベルを使って演奏しタイムキーパー役を果たします。他のメンバーはこのベルの音を聞きながら演奏します。先生はベルのパターンを奏しながら、私が覚えたドラムパターンを入れるタイミングを指示します。パターンを習うことといつ曲に入っていくかは別のことなのです。ある時は彼等のコンサートについて行き録音し、またある時は彼等のリハーサルや昼食にもついて行きました。

 ライヒは分厚く非常に複雑なリズム構造を持つ西アフリカ音楽に惹きつけられました。この音楽はポリ・リズムで作られています。ポリ・リズムとは文字通り、複リズムという意味で奏者それぞれがユニークなリズムパターンを反復するのです。全てのパターンは一斉に奏されますが、それぞれ開始点が異なり、また合図ベルによってまとめられています。(各奏者が人間テープ・ループだと思ってください。だからあまり変なことにはなりません。)
 西アフリカ音楽の構造は自分の物と似ているとライヒは気づきました。位相ズレ工程は異拍リズムパターンの多層化を生み出しているし、メロディやハーモニーよりはリズムに焦点を当てているし、執拗な反復によって構造を創り出している点も(西アフリカ音楽と)同じなのです。パーカッシブな音色を好み、個人表現を共同体の工程に従属させるような儀式性を持っている点も同じです。
 ニュー・ヨークに戻ったライヒはこの新しい知見をどう使ってゆくか考えました。西アフリカ音楽をただ真似する事はしたくありませんでした。当時言うには「エキゾチックなドラム類を買いに行き、ニューヨーク・シティ風アフリカ音楽を作るのはいやです。」西洋文化に育った作曲家がどうやったら上手く非西洋的法則を使っていけるか、一九七三年に出版したエッセイで考察しています。

 私の場合、何らかの非西洋音楽を真似することには全く興味がありません。非西洋楽器を自曲に取り入れたり(ロック・バンドのシタールとか)、自分の楽器を非西洋風に鳴らしたり(エレクトロ・ドローンにインド風ヴォーカルスタイルを乗せたり)、ということです(ここでライヒはヤングをからかってます)。非西洋音楽の音を真似ることはシナ趣味品物と言われるエキゾ音楽になります。
 そうではなく非西洋音楽構造から見た知見で独自の音楽を創り出しえるのです。ここで非西洋音楽が音にではなく思考に影響を与えるという面白い情況が生まれるのです。西洋作曲家が非西洋音楽を物真似するのではなくその構造から影響を受けることのほうが真に新しいものを生み出す可能性が高まるのです。

 ライヒの場合、真に新しいだけでなくミニマル初のマスターピースである曲が生まれました。作曲に一年以上かかった約九十分の作品「Drumming」が一九七一年十二月ミュージアム・オブ・モダンアートで初演された時、観客はスタンディング・オベイションで迎えました。観客はある事件の目撃者になったことを知ったのです。
 ライヒの作品中で「Drumming」ほど非西洋音楽から明らかな影響を受けた共同体儀式感を感じさせる物は無いでしょう。今や十三人に増えたスティーブ・ライヒ&ミュージシャンは白いシャツと黒いズボンでドレスアップしステージ中央のドラムの前に立ち冷静にこの音楽プロセスを叩き始めます。暗譜で演奏し個人の柔軟性を犠牲にしグループ表現というもっと大きなゴールへ向かうのです。パーカッシブな反復作業は機械的に見えるかもしれませんがこの「Drumming」を演奏するにはほとんどヨガ行者のような凄い集中力を必要とするのです。そしてこの自制的法則はまた爽快感をも生み出すのです。
 「Drumming」は途切れなく続く四楽章で構成されています。「Drumming」以前の全作品は位相ズレ工程をはっきり認識させかつ音色にミニマル的統一性を持たせるために同一楽器のアンサンブル用に書かれていました。しかし今、ライヒは初めて楽器を増やしたのです。第一楽章は対になった四台のボンゴ、第二楽章は三台のマリンバ、第三楽章は三台のグロッケンシュピールとピッコロ、第四楽章は今までの全てが弾かれます。また詩の無いヴォーカルパートの使い方はもっと愉快で魅力的です。声を目立たせないためにライヒはその声質に音色が似た楽器を混ぜ合わせました。つまり男声にはボンゴ、女声にはマリンバ、口笛のような声にはグロッケンシュピールです。
 音色が増えてもなお和声、リズムの静的側面から見ると「Drumming」ははっきりとしたミニマル作品です。「Drumming」では十二拍のリズムパターンが曲を始めまた曲の間中変化無く繰り返されます。また曲のオープニングパターンの中心となるF#長調の調性から外れることはありません。また少なくとも始めの三楽章はライヒの愛する音楽工程を聞き取ることができます。幾つかの楽器で十二拍パターンが徐々に作られていきますが、奏者それぞれが独自に入ってくるので結果としてポリリズム構造が生まれます。十二音のパターンが完成すればライヒは位相ズレ工程に移すのです。
 ライヒの作品中、「Drumming」の巨大な構築も新しいものでしたが最大の革新は音色ブレンドの豊かさでした。特に第4楽章とその全奏者を要する最終セクションにおいて、ライヒが素材のミニマル的経済性から脱け出そうとしている事が見て取れました。楽器と声の目も眩むような音色と、音楽工程の聴取性を犠牲にしてしまうような輝きの出現は今までのライヒ作品にはありませんでした。
 実際「Drumming」はライヒ初期の簡素で最も減少的だった時代に終わりを告げたのです。そしてまた後にミニマリズムを巻き込み且つ取り返しのつかないほどに変えてしまうような誰も予想できなかった音楽豊饒化の先駆的作品でもあったのです。

第三章スティーブ・ライヒ マキシマリスト
 「Drunning」に続く年月、ライヒは新たな地平を求めて熟考していました。フィリップ・グラス・アンサンブルと別れたスティーブ・ライヒ・アンサンブルは一九七一年に真っ先に定期ヨーロッパ・ツアーとアメリカ・ツアーを始めました。ドイツとの接触により有名なドイツ・グラモフォン・レーベルから「Drumming」を一九七四年に発売することになりました。またアフリカ音楽研究が実りあるものだったので地球の他地域への探求も始めました。
 今ライヒの前に新しい領域が開けました。バリのガムランです。調律された金属パーカッション楽器を中心に組まれるオーケストラでこのガムランにはメタロフォン(金属板をマレットで叩くシロフォンのような楽器)、ドラム、ゴングが含まれます。西洋にはこの輝くような金属音色に並ぶ物は無く、心はいつもパーカッショニストのライヒは七〇年代初期から徐々に惹きつけられていきました。
 六〇年代にライヒはコリン・マクフィーの古典的テキスト「Music inBali」を読み、ガムラン音楽のレコードを聴いていましたが、本格的にガムラン音楽や音楽構造を研究し始めたのは七三年夏と七四年夏になってからでした。今回は現地病に罹るのを避けバリでブラブラする代わりにライヒは七三年ワシントン大のあるシアトル、七四年世界音楽センターのあるバークレーに行きました。

 両夏とも私はバリ音楽の学生であると共に、自分の音楽の先生でもありました。再び学生に戻って週に何回か授業を受けて丸暗記したりしました。一九七三年は大アンサンブルのガムラン・スマル・プグリンガンを学びました。もうあまり憶えてませんが、確かメタロフォンを担当しました。翌七四年夏はガムラン・ガンバンを学びました。これはとても変わった音楽で私に合っていました。ある種の老人用音楽、つまりバリ社会の後期ベートーベン四重奏みたいなものです。二本のY字木製マレット(これでオクターブを叩きます)を使い基音とオクターブがY字に配置されている楽器を叩きます。このとてもうるさい楽器がアンサンブルに四台もあってしかも非常に小さい部屋で練習していたので最後には聴覚障害になりました。

 正式にガムランを学び始める以前、既にライヒの音楽は「Piano Phase」や「Drumming」の粗いパーカッシブな音色から離れマレット楽器のより美しく甘美な音色へと向かっていました。実際シアトルに行く以前の一九七三年五月に完成した「Music for Mallet Instruments, Voices and Organ」は、「Drumming」が西アフリカパーカッションを想起させたように、バリのガムランを想起させるものでした。マリンバ四台、グロッケンシュピール二台、メタロフォンが声とオルガンに混ざり合い耳障りのない瑞々しく柔らかな音色になりました。「Music for Mallet Instruments, Voices and Organ」は幾つかの相互関係を持つ音楽工程によって構成され、聴者がその展開を認識できるかどうかあまり気にならないようでした。つまり目指す物が音の美しさに移ったと言えましょう。
 これは彼のミニマル第一教義である音楽工程の透明性を妥協したことになります。「Music for Mallet Instruments,〜」には調域が四つありますがライヒはもっと大きな多様性を取り込もうとしているようでした。しかしまだこの曲には七四年五月から七六年三月までゆっくり継続して作曲された「Music for 18 Musicians」ほどのピカピカ光るほとんどトロピカルとも言える瑞々しさはありませんでした。
 たぶんライヒの最高傑作「Music for 18 Musicians」の特徴は六〇年代ミニマルの厳格性をはっきりと拒絶したことにあります。ライヒもまたこの曲が歴史的作品に相当すると十分認識していました。英国作曲家兼批評家マイケル・ナイマンによる非常に啓発的な一九七七年のインタヴューでライヒは自身の初期ミニマル作品が「説教的」な性格を持っていたことを、そして今はもう違っていることを認めています。もはや作品は一つの厳格な漸次展開工程に基づいてはいないし、もう聴者が構造を簡単に聞き取ることもできないし、作曲行為が没個性的なものでもないのです。ミニマルの飾り気の無い多様性は今や歴史の一項目になってしまったのです。

 ある意味、この音楽がどう作られているかを聴者が聞き取ることに以前ほど関心がありません。何が起こっているか正確に聞き取る人がいればそれはそれでいいし、聞き取れないけれどこの曲が好きでいてくれればそれもまたOKです。「Music for 18 Musicians」で私が本当に気にかけた事はなによりも美しい音楽を作りたいということでした・・・。十年前にやってたような、構造を埋めることに私はもう関係有りません。一方で私の音楽の音全体はだんだん豊かになってきましたが構造を捨てる事無くここまで来れました。
 確かにテクスチャーが密になり、豊かになるにしたがって曲の行程を追うのは難しくなりますし又その必要性もなくなってきます。初期作品には説教っぽい性質がありましたが、振り返ってみるに、新しいアイデアを発見した時は非常に強力に明瞭に切り詰められた方法で提示することが大事です・・・。しかし一度それをやってしまったなら、次は何をすべきでしょうか?完璧な位相ズレ作品をただ座って次々と機械的に作るべきでしょうか?自分としては、人間として進む必要があると思います。それに魂を売ったり、逃避したりするのではなく、ただ進むべきなのです。

 一時間未満のこの「Music for 18 Musicians」はライヒが始めて作曲家として大きく成長したことを証明しています。この曲の演奏のためにヴァイオリン、チェロ、クラリネット二本、女声四人、ピアノ四台、マリンバ三台、シロフォン二台、メタロフォン、マラカスがライヒ&ミュージシャンに増員され、楽器は全てアンプを通します。ライヒは今までで最も多い楽器を自由に使って透明感ある豊かな色彩を創り出すことに喜びを見出しました。
 「Music for 18 Musicians」にはライヒお馴染みの部分もあります。つまり楽器と混ぜ合わせた声の使用、マレット楽器の小波のように響く木の音色、止まらないパルス・リズム、短いメロディ・パターンの定期反復などです。しかしながら今までと最も違うのは静的なハーモニーを超えたことにあります。ライヒは大真面目に「「Music for 18 Musicians」の最初五分は今までのどの作品よりもハーモニーに溢れています」と書いています。
 「Music for 18 Musicians」は十一のパルス・コードのサイクルで始まり、岸に寄せる波の満ち干きのように音量が上下します。十一のコードが終わるとアンサンブルは再び最初のコードに戻りますが今度はピアノとマリンバがパルスを叩き続けます。このパルス・ハーモニーの上に四分の短い曲を付け加え、これが終わる頃に第二コードが戻って来、その上に別の短い曲を加えます。このように元の十一のコード上にそれぞれ十一のセクションが築かれるまで同じ工程が何度も繰り返されます。そして最後にエピローグとして最初のコード・サイクルが戻って来るのです。
 この大構造は完全に聴取できますが、十一パートからなる音楽工程の下部構造は分厚いテクスチャーと快く甘美な音色によって覆い隠されています。その下部構造にライヒお馴染みの位相ズレ・テクニックが入ってくるのですが、この音楽工程を聴者が聞き取れるかどうかライヒはもう気にしていないようです。
 「Drumming」同様、「Music for 18 Musicians」の演奏にも共同体儀式のようなオーラが発せられています。ライヒ&ミュージシャンは暗譜で演奏し、西洋音楽の指揮者による拍節ではなく非西洋の法則に従います。「セクション内の変化と、セクションから次のセクションへの変化はメタロフォンの合図によって行われます。ガムランではドラマーがパターン変化の合図を鳴らし、西アフリカ音楽では主任ドラマーが変化の合図を叩くのと同じようにです。」とライヒは書いています。アンサンブル全体に聞こえるように鳴らされるメタロフォンのチャイムの音は音楽進行の合図なのです。
 一九七六年四月ニュー・ヨーク・タウンホールで「Music for 18 Musicians」の世界初演を行った後、以前は敵対していた作曲家や批評家が急に真面目にライヒを取り上げるようになりました。(この七六年はフィリップ・グラスのオペラ「Einstein on the Beach」初演の年でグラスがメインストリームへ出て行こうとしていた時期であったことも特記すべきでしょう。)一九七八年に発売されたECM盤の『Music for 18 Musicians』は一年間で二万枚以上も売り上げました。そして一九八〇年二月ライヒは自曲のみのプログラムでカーネーギーホールを完売にした近年では初の作曲家になりました。
 ヨーロッパからの委嘱が多く舞い込み今やライヒは真に世界的な人物になりつつありました。アメリカ系音楽団体はほとんどしませんが、このヨーロッパからの委嘱は現在でもアメリカ人ミニマル作曲家をサポートしています。ミニマル周辺が騒がしくなってきた時、これはライヒらしい事ですが、引き返って内面を見つめていました。今度は西アフリカのドラムでもなくバリのガムランでもなく、もっと自分に近い伝統、つまり長く忘れていた自分の出自についての伝統を考えていたのです。ライヒは非宗教的アメリカ同化型ユダヤ人として育てられたのでユダヤの文化・宗教遺産を知りませんでした。「ヘブライ聖歌を聞いたことも無ければヘブライ語も知らず、トーラが一年かけて読まれる(毎年それを繰り返す)事も、何にも知りませんでした。バル・ミツヴァ(ユダヤ教の成人式、男子は13歳女子は12歳で行う)の時は口パクしてました。」大学卒業後ライヒはさらにユダヤ教から離れていきました。「私達の世代の多くがそうであったように、東洋にのめり込みました。六六年から七六年まで毎日ハタ・ヨガをしましたし、呼吸法エクササイズも十年間しました。北宗、南宗を含めいろいろな仏教瞑想をし又、ヨガ瞑想もやってみました。超越瞑想法さえやってみました。どれも面白かったのですが私が望む物へ近づくことはありませんでした。」
 一九七四年三七歳の時ライヒは探してる物が身近に在るのかもしれないと思い始めていました。ほぼ同時期にヴィデオ・アーティストのベリル・コロットに出会いました。彼女はそれまで単チャンネル作品を作っていましたが七三年「Dachau」ではマルチ・チャンネル・ヴィデオをやり始め又、これはユダヤをテーマにした初の作品でもありました。七六年まで二人は結婚しませんでしたがユダヤ教再発見は二人共同の試みになりました。「まず最初にヒッピーの出自であるカバラに関する本を読もうとしました。今でも憶えてますが、この本を持ってコロットの両親に会いに行った時彼女の父親がこれを見て言いました。『トーラを研究せずにどうしてカバラを研究できる?』『なるほど良い質問だ。』と私は思いました。」すぐにライヒとコロットはライヒ言うところの「モダン正教派」の集まりであるニューヨークのリンカーンスクウェア・シナゴーグで授業を受け始めました。二人はトーラ、タルムード注釈書、聖書ヘブライ語を学び、ライヒはユダヤ音楽の文化遺産も学べるだろうかと思い始めていました。
 「ヘブライ語を学んでいる時、聖書テキストに三種の印があるのに気付きました。子音印と母音印とくねくね殴り書きのような印の三つです。そこでヘブライ語の先生に尋ねました。『これはタアミームです。アクセント記号であると共に音楽記号でもあります。』」これを聞いた途端ライヒはすぐ行動を起こしました。ユダヤ神学校に行くとそこの独唱者がよろこんでテキストの唱法を教えてくれました。すぐにライヒはタアミームを書き写した楽譜から西洋記譜法へと研究を進めました。
 しかしシステマティックである意味強制的な方法を取るのが特徴のライヒにはまだ満足のいく物でありませんでした。聖書唱法に触れたライヒの心に民族音楽学者としての自分が目覚め、伝統が息づいているところを聞きたいという欲求が高まりました。「私は尋ね始めました。『もし今日地球上で聖書スタイルが歌われているとしたら、私は何処を見聞すべきでしょうか。』一番近いのはクルディスタン、イラク、イェーメン生まれで今はイスラエルに住んでいる六〇〜七〇歳代のユダヤ人に会う事です、と教わりました。それでこの人々の歌を録音するためにイスラエルへ行きました。」
 ライヒとコロットは一九七七年夏初めてイスラエルに行きました。旅行に先立ち二人はエルサレムの国営録音物保管所に手紙を書き何人かの老人の声を録音できるよう手配しておきました。「ある日、イェーメン出身のユダヤ人でイスラエル軍から帰って来たばかりの息子二人を持つ六〇か六五歳の老人宅へ夕食に出かけました。お茶を沢山飲んだあと、やっとその老人は録音に同意してくれました。」ライヒは今でもその老人の素晴らしい音色を思い起こすことができるのです。「ファンタスティックでした。一五〇〇年の伝統を持つ全く忠実な方法で鼻を使って歌いました。」
 ニューヨークに戻るとライヒはアフリカ音楽やバリ音楽を研究したあとの時と同じ問題に直面しました。西洋作曲家である彼がただ真似をするのではなく、この新しい知見をどのようにしたら活用していくことができるのか。その答えもまた音色を真似るよりも構造を研究することで得られました。ライヒは聖書唱法に新しく刺激的な音楽構造を発見したのです。

 トーラの中の単語一つ一つに印が付いていて、この印が伝統的メロディ要素を意味します。そしてこのメロディ要素を結べば毎週の朗読を詠唱できるのです。これがヘブライ唱法で基本的に行われていることです。既存のメロディを取り出し一本に結ぶことで神聖なテキストに仕えるもっと長いメロディを作り出すのです。もしこのテキストから離れるならば、短いモチーフをまとめることでもっと長いメロディを作り出せるというアイデアだけがあなたの手元に残ります。これが今まで思い至らなかった新しい方法なのです。

 ライヒの作曲キャリア上最重要な委嘱が三つ来ていたのでライヒにはこの発見を掘り下げてる時間が有りませんでした。オレンダ・フェスティバルは大アンサンブル作品(これにはピッタリの曲「Music for a Large Ensemble」になりました。)を委嘱し、ラジオ・フランクフルトは室内楽(「Octet」)を委嘱し、サンフランシスコ交響楽団はライヒ初のオーケストラ作品(「Variations for Winds, Strings, and Keyboard」)を委嘱しました。無駄にする時間は全く無かったのです。
 「Music for a Large Ensemble」は「Drumming」から「Music for 18 Musicians」へと続いた楽器群の拡張を追及しました。全員で30人になる「Music for a Large Ensemble」は室内オケと比肩しうる位巨大でした。この音色の多様さは一つの音色にこだわるミニマリズムを拒否し、音楽工程が認識しずらくなるほどなるほどの分厚いテクスチャーを作り出していました。
 「Octet」(1979)はピアノ二台、弦楽四重奏、クラリネット/バス・クラリネット/フルート/ピッコロ持ち替えの木管二本の曲です。「Octet」はライヒの偏愛するマレット楽器がないので、絶え間無いパルスを送る役目は二人のピアニストが担当しパーカッシブ且つリズミカルに組み合わさった非常に技巧的な旋律を奏します。
 「Octet」のフルート・パートはライヒの詠唱研究の成果である新しいメロディの妙技が聞き取れます。つまり短いモチーフを結び付けて長く華やかなメロディを創出しているのです。メロディよりもリズムを優先してきた作曲年月の後に今やライヒは自分印のリリシズムを完成したのです。これで非西洋音楽構造原理がライヒの全く思わぬ作曲成長を三度生み出したことになります。
 さらに「Variations for Winds, Strings, and Keyboard」へと成長は続きました。このフル・オケ作品はパーカッション・パートがほとんど無いメロウな音色でした。「Variations〜」の音色が新鮮なので聴者は「私の作曲かどうか分からないかもしれません」と一九七九年にライヒは述べています。振り返ってみるとライヒが誇張していってるのは明らかですが、当時彼にとって「Variations〜」は新たな突破口に思われたに違い有りません。
 「Variations〜」の構造は巨大で長大なシャコンヌ(シャコンヌとは常に変化するメロディを反復するコード進行やベースラインが支えるバロック時代の様式)でした。「Variations〜」のコードは非常にゆっくりしたペースで進み、この二二分間に三回だけ繰り返されます。また曲が進むにつれオケ高音部のフルートとオーボエの長いメロディは徐々に華やかになっていきます。
 新たな構造和声と徐々にはっきりしてくるメロディラインを持つ「Variations〜」をかんがみるに、ライヒがこの作品を次のステップへの予兆と捕らえていたのも頷けます。一九八〇年にライヒはこう述べています「「Music for 18 Musicians」は過去の総決算でしたが「Variations〜」は来たるべき豊穣なハーモニーと多様な楽器世界への扉でした。」そしてたぶんこう付け加えたのではないでしょうか、厳格ミニマリズムよさようなら。
 しかしライヒ自身にさえ次に起こす行動を予見できなかったのでしょう。ライヒはユダヤ文化遺産を再発見し神聖テキストの探求へと向かいました。しかしテキストを音楽に当てはめることは学生時代からしていませんでした。テキストを音楽化すること自体が普通の発話リズムを壊してしまうと感じていたため、実際声楽曲の作曲を慎重に避けていました。しかし音楽的要素に満ちている詩篇にはずっと惹かれていました。結局ライヒは詩篇から聖書ヘブライ語の詩四篇を取り出し、詩篇を意味するヘブライ語複数名詞「Tehillim」を曲名にしました。
 「Tehillim」(1981)はライヒ初の慣習的声楽曲でしたが言語学的、歴史的にも大昔の単語を慎重に選んでいました。ストラヴィンスキー「詩篇交響曲」で使ったラテン語のように、「Tehillim」の古代ヘブライ語は現在使用されてる言語ではありません。西洋ではユダヤ伝統の詩篇詠唱法はもう存在しないのでこの音楽とつながっている伝統の重みを気にせずに、詩に自由にアプローチできました。詩篇はスピーチ・リズムに忠実で語の意味を強めるようにできています。ライヒはこれに従い、「Octet」を凌ぐミニマル史上類を見ないようなメロディックに拡散伸長してゆく音楽言語を導き出したのです。(偶然ですが、ライヒが「Tehillim」を作曲しているちょうど同時期にフィリップ・グラスは熟達したヴォーカル・メロディへの初探求であるオペラ「Satyagraha」を作曲していました。)ライヒはこの新しいリリシズムを獲得するために自身の音楽言語の屋台骨を支えていた「反復」を捨てねばなりませんでした。
 聖書詠唱はライヒの新たなメロディセンスに影響を与えたかもしれませんが、「Tehillim」にあからさまな「ユダヤ性」を見つけ出そうとするのは間違いです。

 「Tehillim」を聞いた人は「ユダヤ風のメロディだ」と言います。くだらない、これはスティーブ・ライヒ風メロディなのです。それでもし私がユダヤ人であるかどうかという事なら、それはそうです。しかしこの曲はユダヤ教ハシディーム派やユダヤ民族音楽のメロディとは何の関係も有りません。この長いメロディはガムラン・ガンバンの長いサイクルと私の詠唱研究の二つが合わさった結果なのです。この二つが合体するとより伝統的な曲を奏でるのかもしれませんが。

 四楽章三〇分の「Tehillim」は新たな地平を切り開きました。パルスは残っていますがリズムは最早固定されていず拍子がほとんど小節毎に変わりヘブライ人のちゃんとした朗読のように聞こえます。オーケストレーションは木管、弦楽、電子オルガン、マレット打楽器の他に、聖書に関連ある(詩篇一五〇に書かれている小さなドラムに似た)ジングルを取ったタンバリン、(ガラガラの代わりの)マラカス、手拍子、ミニチュア・アンティーク・シンバルといった楽器を含む豊かで多様なものになりました。
 もちろん「Tehillim」はライヒ過去作品との十分なつながりがありますが、もう「音楽工程」うんぬんを論じるのは正しくありません。ライヒの位相ズレ・テクニックは対位法への執着を強調しているだけなのです。振り返ってみると位相ズレ自体が厳格な対位法工程である事が明らかです。なぜならこれは、あるメロディに対し同じメロディ(リズムだけが違う)が奏されるカノン状態を生み出しているからです。
 実際「Tehillim」の第一楽章をカノンに費やしています。詩篇十九(「天は神の栄光を宣言する」)の豊かな叙情で始まり、四人のヴォーカリストがそれぞれ同じメロディをリズムの位置をずらして歌うふくよかな四声カノンへと移行します。詩篇三九を使った第二楽章ではカノンが終わり変容工程へ向かいます。リリカルなメロディをメリスマ的な装飾と新しい対位法で飾るのです。最も予想外だったのは詩篇十八を使った第三楽章です。八二年にライヒは言っています「学生時代から見て初めての遅い曲であるだけでなく最も半音階を使った曲でもありました。」この半音階主義はとても生き生きとした物になりました。ヘンデルの「メサイア」ぐらい価値のある完全性をもってライヒはヘブライ語の「ee-kaysh」(ひねくれた)を取り出し、「音楽の悪魔」として昔は禁じられていたクラッシュ三全音(ド#−ソ)で飾りました。だるく暗い色調の第三楽章を経て歓喜に満ちた日の光がフィナーレを飾るために戻ってくるのです。「Halleluhu」(神を称えよ)を中心に回る詩篇一五〇が弦楽、木管、ドラム、シンバルに触れ、これらの楽器はスリリングな肯定歌のために一丸となります。そして最後の四楽章では純粋な交響曲風に今までの構造テクニックを一まとめにした巨大な再現部が現れるのです。
 「Tehillim」はつられてつま先で踊ってしまいそうな作品で、レナード・バーンスタイン「Chichster Psalms」(1965)がそうであったように、これは音楽なのか宗教なのかといったお門違いの疑問を抱かせる物でも有りました。民族音楽学的再構築でも、偽オリエンタリズムでもなく全く新しく且つ自分の作品だとすぐ分かる曲を作ったライヒを賞賛すべきなのです。
 ライヒは「Tehillim」によって、もっと直接的に言葉を扱ってみたいと思うようになりました。詩人で物理学者のアメリカ人ウィリアム・カーロス・ウィリアムス(1883〜1963)の著作がずっと好きだったライヒはウイリアムスの詩を幾つか使って「The Desert Music」(1984)を作りました。この曲は二七人のコーラス、八九人のオーケストラを要する五〇分の巨大なカンタータで、ライヒは始めて英語を曲に入れました。
 確信を持って使えるような詩を探し最終的にウィリアムスの詩集「The Desert Music」と「Journey to Love」に決めました。この二つから音と核絶滅の恐怖に言及している部分を抜き出し、アーチ構造(ABCBA)の5楽章にあてはめ、対になっている楽章では同じテキストと音楽を使いました。
 今までこのような壮大な構造を考えたり、こんな大きなオーケストラと対峙したのは初めてでした。実際「The Desert Music」の豪華で慣習的なオーケストレーションが最大の進歩だったのかもしれません。ライヒはこれまで「Variations〜」のような初期オケ曲をライヒ・アンサンブルの単なる拡大版と捉えていました。楽器の増やし方も役割も適切とは言えず、特に弦楽器は二流市民扱いでした。「確かに、非オケ曲の「Tehillim」「Variations〜」の弦楽パートは基本的にロングトーンをずっと弾いてるだけでしたので、「The Desert Music」ではオーケストラ・セクションを鍛えなおそうと決心しました。」
 実際にやってのけたのです。ライヒは自作室内楽曲の複雑な対位法をオーケストラ楽器全ての音域に移しました。合唱パートも非常に難しく、特に第三楽章の中央部ではウィリアムスの詩「The Orchestra」から取り出されたまさにピッタリな部分「テーマを繰り返すのが音楽原理、何度も何度も繰り返して、曲は進む」が曲中で最もしつこく濃縮カノンを繰り返し鼓舞するのです。
 しかし「The Desert Music」の最も驚くべき点は強調されたエモーションなのです。ストラヴィンスキーが構造複雑性の幕を下ろすことで個人的感情を出さないようにしたように、ライヒの音楽から連想できないのがこの解き放たれたエモーションでした。「多分私はストラヴィンスキーのように感情に対し控えめでした。感情には慎み深く、壁を作っていました。でその壁を壊そうとする力を感じるのです。そのエモーショナルな力をコントロールしエネルギーを利用したかったのです。その力ででこの曲は進んでいきます。」と一九八四年に言っています。
 ライヒは「The Desert Music」で表現語彙を広げましたが、過去作品の延長線上にあるのも確かです。第一楽章の幕を開けるパルス・コード・サイクルは巨大なオルガン風に再生する「Music for 18 Musicians」のイントロ部分であるし、第二第四楽章の暗く不吉な半音進行はジュリアード大時代のライヒの和声を思い出させ、第三楽章の相互関連カノンは「Drumming」のポリリズムを思い起こさせます。しかし特に美しいのは第五楽章のオープニングです。コントラバスからピッコロまで6オクターブにも渡る音域を作り出すため長い和音が配置されます。この和音の中で忙しげな対位法がかみ合って進むにつれて、ある視覚イメージが浮かびます。怖いと同時に陽気でもある荒涼な平原をある人間が孤独に走っているようなイメージです。
 「The Desert Music」初演時ライヒはこの表情豊かな作品がファッショナブルなネオ・ロマン主義的スタイルの先駆けになることはないと注意しました。「私にはもっとエモーショナルな交響曲を書く必要がありません。“ニュー・ロマンティシズム”と言われた十九世紀音楽は以前ほど好きでなくなりました。しかしもしまだ探求すべき世界が残されてるなら、私にはそこでもっと言える事が有ります、十年前よりもっと強くはっきり言える事が有ります。」
 「The Desert Music」作曲にほとんど丸二年間費やした後にライヒは伝統的オーケストラや声楽についての大声明を発表してしまったと思っていました。このような伝統的音楽製作の制限の中で曲作りをすることに決して満足していませんでしたし、既に八四年にはオケ曲の追及に疑義をはさんでいました。「できるだけ伝統的に、つまり“交響曲第一番”なんかを書く気は全く無い」とはっきり言いました。
 実際この「The Desert Music」の巨大な西洋交響曲的性向についてライヒはほとんど防御的とも言える調子で話します。「私がより伝統的な曲を書いていくことは無いでしょう。ある意味「The Desert Music」はこの伝統的傾向への一歩かもしれませんが、私はこの豊穣を今まで書いてきた路線の曲に入れ戻したいのです。というのは、革新的なものにも伝統的なものにも多くのルーツを持つ基本的に新しい文学を創造し続けることにずっと興味を持ってきたからです。」と言います。
 そんな懸念がありましたがライヒがすぐにオーケストラに背を向けることはありませんでした。実際一九八〇年代はライヒのオーケストラ時代になったのです。「Tehillim」「The Desert Music」のフル・オケ版に加え「Three Movements」(1986)、「The Four Sections」(1987)を作曲しました。セント・ルイス交響楽団が委嘱した「Three Movements」にライヒは冷たく言い放ちます「基本的に自作を流用したものです。「Sextet」よりはかなりいいですが。」正直言ってこれは「The Desert Music」と「Sextet」(1985)の部品をリサイクルした簡潔作品で目新しい物はほとんど有りません。しかしサンフランシスコ交響楽団75周年記念委嘱作品「The Four Sections」は非常に優れた作品です。この曲の全四楽章はライヒ風「オーケストラのための協奏曲」と言えましょう。異常に遅く曲がりくねった第一楽章は弦楽のショー・ケース、第二楽章はパーカッション、第三楽章は木管金管に焦点を当て、ストラヴィンスキー風にリズミックな第四楽章は全てを統合したフルオケになります。
 しかしながらこれらのオケ作品を聞けば、ライヒが慣習的なオーケストラ書法に満足してないことに気付かされるでしょう。ライヒの特徴的な対位法テクスチャー、鋭くトンガッた室内楽書法が交響曲のセットの中では鈍って濁ってしまうのです。それにオーケストラの非常に制限された練習時間やオケメンバーの態度にもフラストレーションを感じていました。

 戦いに臨む闘士の気分でオーケストラのリハーサルに行ったとします。オケの何人かは本当に賛辞を送ってくれる一方、私の曲を奏し終わった時に普通のレパートリーに戻れて喜んでるのが大半なのです。私は皆が作品に打ち込めるメンバーと一緒にやってきました。そうしたいと皆が望む時にもっと良い演奏ができる
のです。

 実際一九八九年にライヒは「The Four Sections」を「オーケストラへの、慣習的音楽製作への、そして超保守的八〇年代への賞賛と決別」と例えました。一九九〇年、オーケストラ拒絶について詳しく述べています、

 私はオーケストラに憤りを感じてるのでは有りません。例えばアムステルダムのリーク美術館に行ってレンブラントを見るのは好きですし、また維持され正常な状態に置かれるべきだと思います。ですから数は少ないけれど世界中にあるずば抜けたオケが演奏し、献身的な古楽コミュニティーが補助金を与えて維持に努めればいいのです。しかしオーケストラは私が選ぶ表現形式ではないようです。オケ曲を書いたのはそこにオーケストラがあったからで、又私が生活している環境の一部でもあります。だから挑戦してみたのです。しかしこれを続けるのはうんざりです、片手を背中で縛ったまま曲を書くようなものですから。

 一九九〇年代初頭にはフィリップ・グラスが恒常的にオーケストラに曲を書き交響曲や協奏曲と言った伝統的音楽形態をも書くようになったのは皮肉なことです。一方メインストリームにはっきりと背を向けたライヒは若き日の革新主義を取り戻そうとしていました。
 八〇年代ライヒはソロ楽器や室内楽の追及をやめてしまったわけではなかったのです。実際ライヒの八〇年代作品中で素晴らしい物は、ミニマルのトーチを次世代へ受け渡すような小規模作品でした。鋭くとがったデリケートな音色を持つパーカッションとキーボードのための「Sextet」(1985)は大オーケストラの持つメロディアスな叙情性や表現の幅広さではなく、初期ミニマルが持っていた厳格な手法、反復リズム・パターン、対位法工程を取り戻していました。
 同様のことが多重フルートの「Vermont Counterpoint」(1982)、多重クラリネットの「New York Conterpoint」(1985)、多重ギターの「Electric Counterpoint」(1987)の「Counterpoint」シリーズにも言えるでしょう。通常一人の生演奏と十二個の録音トラックで演奏されるこのカウンターポイント(対位法)作品はその名の通りに演奏されます、つまり「Piano Phase」時代のような音楽工程を参照しているのです。このシリーズは位相ズレではなく相互作用的に定期反復するカノンが漸次的に積み上がる曲です。またダイナミックさと静的和声を兼ね備えた多重同一楽器のおかげで対位法行程が容易に知覚できるのです。
 八〇年代ライヒ最大の名曲「Different Trains」(1988)の土壌になったのはこのラディカルな厳格性でした。この曲は元々クロノス・カルテット用弦楽四重奏の予定でしたが、ライヒは全慣習的な編成に曲を書いていくという見通しに魅力を感じなくなりました。そこでライヒはサンプリング・キーボードという新しい電子楽器を四重奏に組み込むことにしました。これはサンプラーという機械で今日ポップスでは標準的な楽器です。発話フレーズや効果音や切り抜いた音楽をデジタル・フォーマットに記録することができます。サンプラーのキーを押すだけでいいので生演奏中でも鳴らすことができます。
しかしながらまだ「Different Trains」のテーマは確立していませんでした。生得的にメロディアスな声が音楽要素を生み出した「It's Gonna Rain」や「Come out」の頃のコンセプトに戻りたいと思っていました。サンプラーで生の弦楽四重奏にスピーチ録音を使うと決めた今、どんなスピーチを使うべきか問題になったのです。バルトークからヴィトゲンシュタインの声まで色々考えた後にもっとピッタリくる物に巡り合いました。

 ある男が宝を探して世界中を巡った挙句その宝は自分のベッドの下に在ったって話をご存知でしょう。そう、私は内省的に子供時代を考え始めました。一歳の時両親は離婚し、母はカリフォルニアに行き、父はニューヨークに残りました。この両親の間を、とてもロマンティックでエキサイティングで少し哀しい旅行でしたが、私は世話役のヴァージニアと一緒に四日四晩かけて往復したものでした。一九三九〜四二年は私がそんなことをしていた時代でしたが、あの有名な写真を御存知でしょう。ワルシャワのゲットーで小さい子供が両手を挙げている写真です。あの子供はまるで私みたいです。こう思いました、私は神の御加護があってアメリカに居て過保護に育てられ非常に幸運でしたが、もし私が海の向こうに居て別の列車に乗ってたらポーランドに連れて行かれ死んでいたかもしれないのです。

 でタイトル「Different Trains」が浮かびました。さぁライヒは証人となるような声探さなくてはなりません。ヴァージニアを訪問し列車旅行の思い出を録音し一九四〇年大陸間線に従事してプルマン車両の荷物運搬人をしていたローレンス・ディヴィスを見つけ出し、テープ文書館に行きホロコーストから生き残った人々の回想を選び出したりしました。上記の人々は非常に異なった文化出身でしたが共通して列車の思い出を鮮明に憶えていました。また歌とも言えるようなメロディアスな声も持っていたのです。
 「作曲家として、本当にメロディアスな声を探し求めていました。彼らが語った事やメロディックな音声を編集したフレーズは四〇〜四五個になりました。」ライヒはこれらのフレーズとアメリカ/ヨーロッパの列車のホイッスル音を一緒にしてサンプリング・キーボードに入れました。次にそのサンプリング素材を弦楽四重奏用に使いました。弦楽四重奏団はまずそのサンプリング・ヴォイスをなぞりそこから徐々にメロディを展開させていきます。「この作品中の全メロディは基本的にメロディックな口述通りなのです。ただ声を採譜しただけなのです。彼らがしゃべった通りに私が書く、彼らが音符も音色も意味も与えてくれるのです。」
 このサンプリングされた発話ヴォイスが、頻繁なテンポチェンジだけでなく、ハーモニーや転調をも決定しているのです。「大きく見れば、サンプリング・ヴォイスによってハーモニーの生まれる場所が作られているのです。鎖や足枷といった制約が多いほど自由に動くことができるとストラヴィンスキーが言ったのを御存じでしょう。今回私は地面に鎖でつながれていたけれど非常にエキサイティングでした。」
 この発言は単なる新しいテクノロジー技術を使っただけだと聞こえるかもしれませんがしかし、(実際は)「Different Trains」には痛ましいほどの情緒的インパクトがあるのです。第一楽章「アメリカ−戦前」は列車の音がガタガタと止む事無く続き、ホイッスルがスリリングに鳴り続けるのです。アメリカ民話における無垢で開放的でロマンスに溢れた列車のイメージを伝えます。しかし第二楽章「ヨーロッパ−戦中」は悲しげなサイレンの音とナチの囚人護送車の恐怖が全編を覆います。そしてアウシュビッツの生存者が天空へと燃え盛る炎を思い出すクライマックスでは冷淡なパルスは突然止み、ひどくシンプルなロング・トーン・コードは彼方へと消えていきます。最終楽章「戦後」は失われてしまった無垢な過去を再度取り戻そうとするのですが、それにはもう戦火の悲劇によって消える事の無い傷がつけられてしまっているのです。
 正統ユダヤ教を遵守する信者になりたてのライヒにとってこれは権力の恐怖を映し出しまた心に深い個人的反応を引き起こすものになりました。「この素材を他の方法で提示することは不可能だと思いました。ユダヤ人の私がもしあの当時ヨーロッパに住んでいたら、ここに生きていなかっただろうという思いからこの曲を作りました。私が生き延び、そして多くが死んでいったあの時代をできるだけ誠実に提示してみたかったのです。」とライヒは言います。
 音楽的に見て「Different Trains」には今までのライヒ定番技がないのです。つまり相互関連カノンとゆっくり動くコードが無く、代わりに曲がりくねったメロディ、高速転調、矢継ぎ早のテンポ・チェンジがあるのです。ヴォイス・サンプル、列車ホイッスルと融合した四倍四重奏団は今までのどんなオーケストラよりもライヒの創造源を刺激しました。一九八九年ライヒはこう認めています「「The Desert Music」路線が将来も続くかもしれませんが、生涯この種の音楽をやるために私は生まれてきたのでしょうか?しかし「Different Trains」の場合、私はこれを作るために生まれてきたのだと、私が作曲しなければ誰もしなかったろうと思っています。」
 「Different Trains」の成功は少なからずクロノス・カルテットの参画によるものです。彼らはこの曲を初演しノンサッチ・レーベルから発売しました。このアルバムはベスト現代音楽部門でグラミー賞を取りました。クロノスのメンバーは変わった服装で同じように変わったレパートリーを持ち長い間アメリカ・ミニマル作曲家を支持してきました。八〇年代初頭にはテリー・ライリーを作曲的引退状態から引っ張り出し、ライリーの二時間曲「Salome Dances for Peace」を初演し、九五年にはフィリップ・グラスの四重奏曲四曲から成るアルバムを発売しました。
 一九八八年には既にライヒは「Different Trains」が「近い将来、新しいドキュメンタリー・ミュージック・ヴィデオ・シアター作品につながるだろう」と自信を持って予見していました。ミュージック・シアター作品は「Different Trains」の超拡大版になるだろうと、つまりライブ・ミュージシャンと歌手で増強された映像音響ドキュメンタリーになるだろうと。しかし今のところ何をテーマにしてよいか分かりませんでした。
 当時ライヒはベリル・コロットに助言を求めました。彼女は模倣的で正確にリズミックな構成とシンクロする多チャンネル・ヴィデオ・インスタレーション「Dachau 1973」「Text and Commentary」(1977)等を作った経験がありました。彼女の手法はライヒが偏愛する多層対位法的音楽にピッタリ合いました。ライヒとコロットは一九七六年来夫婦ですがコラボレーションはしませんでした。ライヒとコロットは多くの議論を重ね、今回のテーマは聖書伝統の小さいが強烈な一片から選ばれるだろうということになりました。
 このミュージック・シアター作品「The Cave」のタイトルはヘブロン西岸地区市にあるマクペラの洞窟から取られました。聖書の祖先埋葬の地と言われており、ユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒にとって神聖な場所であり、又各教徒は現代関連事象を非常に異なって解釈しています。歌手に聖書人物を再演させるような案は純真すぎてライヒ向きではありません。「こういう作品を作る時、バリトンにアブラハム、テナーにイサク、なんてのは非常にうぶです。これじゃまるでセシル・B・デミル監督映画『十戒』です。」と軽蔑したように言います、「「The Cave」に聖書人物は登場しません。インタヴューを受けた人が言及する時にだけ間接的に登場しますが。」
 ライヒとコロットはイスラエルのユダヤ人に(第一幕)、パレスチナのイスラム人に(第ニ幕)、アメリカ人に(第三幕)カメラとマイクを向け同じ簡単な質問をしました。「あなたにとってアブラハムとは、あなたにとってイサクとは、あなたにとってハガルとは、あなたにとってイスマエルとは。」この質問に対し、現代中東紛争の根源を聖書やコーランに帰する洞察だけでなくミュージック・シアターの夕べ用原料をも提供するような熱い反応が返ってきました。
 ほとんど丸五年かかって一五〇時間にも及ぶテープを編集しました。コロットは普通のリブレットを使わずに、最も刺激的だったインタヴューを幾つか取り出し、彼等の声をオーディオ・テープにしてライヒに渡しました。ライヒはそのメロディアスな発話部分を音楽用に採譜し、一つのサンプリングフレーズから次のサンプリング・フレーズへと進める論理的方法を見つけました。次にコロットはヴィデオ・コンポーネントをデザインしこの音楽に従属するのではなく補佐するような多チャンネル・リズム構造を作りました。
 二人ともこのドキュメンタリー題材を敬意ある献身で眺め又ライヒにとっては「Differnt Trains」よりもっと制約の多い作曲プロセスを取ることになるだろうと考えていました。

 「The Cave」には多様な人々からの引用があります。つまり異なったリズム、異なった調へとバラバラに存在している素材を一つにまとめなければなりません。「The Cave」で私は苦境に陥ったと言えます。英語言語を理解する時には無かった調性選択をせねばならず、又転調が上手くいかない時は、物語をあきらめて、話を進める別の道を探さねばなりませんでした。これらの制限により非常に特異な製作状況に置かれました、今までで最も限定された状況に。

 限定されしかも要求の多い厳しい状況です。ライヒの音楽はそのしつこいパルスとゆっくり変化するハーモニーで知られていますが、「The Cave」の場合はリズムや音程が人によって大きく異なる発話メロディに基づいています。したがってテンポの流動性と半音階の度合いは「Different Trains」以上なのです。「つむじ風の尻尾をとっ捕まえるようなものです。でもそうすると6♭(変ト長調・変ホ短調)から2#(ニ長調・ロ短調)へと連れられて行ってしまうのです。したがって今までやったことも無いような突然の転調を何度もすることになりました。将来これらの幾つかは、私のハーモニー・ボキャブラリーの中で成長していくでしょう。」
 しかしここでライヒをただ発話メロディを採譜し連結させるだけの隷属的自動機械とみなすのは間違いです。実際彼はばらばらのインタヴューを一つの筋の通った巨大な二時間にも及ぶハーモニック構造体に作り上げたのです。そして(パーカッション四台、キーボード三台、木管二本、弦楽四重奏の)十三楽器とオペラ以前の古楽風にノン・ヴィブラートで歌う(ソプラノ二人、テナー、バリトンの)四声に楽譜を書いたのです。
 そしてライヒはドキュメンタリー素材を凌ぐ膨大な音楽を用意しました。第一楽章ではコンピューターがリズミカルに聖書原本テキストをヴィデオモニター上に打ち出したり、イスラエルのドキュメント映像を映したりします。この聖書セクションでは今や作曲的制約から自由になったライヒが「Tehillim」を思い起こすようなジャジーでパーカッシブな音楽を作り出しています。第ニ幕では、コーランの音楽化がイスラム伝統上禁じられているのでパレスチナ人のドキュメント映像やmuqri(コーラン詠唱者)が映し出されます。キッチリ分けられた第一幕と第ニ幕が豊かにリズミカルに進む第三楽章へと溶け込んでいきます。そこでは聖書セクションとドキュメント映像が混ざり合い、アメリカ人の宗教的伝統に対する気楽で不敬な反応を映し出します。
 「The Cave」の世界初演は一九九三年五月ウィーン・フェスティバルで、アメリカ初演は同年十月ブルックリン音楽アカデミーで行われました。この作品をどうジャンル分けするか議論が沸き起こり、ライヒはこのような挑発的作品を発表して喜んでいるようでした。一九九三年ライヒは一つの信念を持っていました、「The Cave」をオペラにはしないと。「“オペラ”=“作品”という意味で「The Cave」をオペラであると言うなら、もちろんそれはオペラです。しかし“オーケストラがオケ・ピットにいてステージ上にはベル・カント唱法で歌う人がいる”という意味でこの作品をオペラと呼びたいのならば、それははっきり言って違います。」
 ライヒとコロットは「完全に新種の音楽シアター」というのを好んでいます。誇大広告を帯びたフレーズですがまさに正確な表現でしょう。慣習的なオペラを焼き直しする代わりにライヒとコロットは音楽ドラマだけでもなく、ドキュメンタリードラマだけでもなく、オペラだけでもない、これらすべてを抱合したユニークなハイブリッド複合体を作り上げました。剃刀のように鋭く、コンピューター制御による音楽とヴィデオの同期化「The Cave」は極めて個性的な想像力溢れた劇場なのです。
 ライヒにとってこの構造体を慣習的なオペラの力で維持するのは愚の骨頂です。伝統的オペラ手法で現代的主題を扱っているジョン・アダムスの「Nixon In China」のような歌劇にほとんど敬意を表しません。

 モーツァルトやヴェルディが使ってたのと同じベル・カント唱法、同じオーケストラで一九九〇年代にオペラを作ることに妥当性があるでしょうか。ストラヴィンスキーが「道楽者のなりゆき」でしたように、そうする理由があるならば、あなたはモーツァルトを思い起こさせたいのだから、それはそれでOKです。しかし私の同業者のオペラにそれと同じ必要性があるとは思えません。彼らは「歌手とオーケストラがヒューストンやニューヨークに居る、だからこれを使おう。」と言ってるようですが、これはコンビニ結婚みたいで真の思索とは程遠いと思います。

 ライヒの考えでは「The Cave」のような現代的主題は現代語を話す音楽素材を必要とします。つまりステージにはエレクトリック・バンド、ジョアン・サザーランドというよりはエラ・フィッツジラルドに近い、マイクを使うヴォーカリスト四人組を必要とするのです。エレクトロニクスやアンプリフィケーションと聞いただけでビビってしまうオペラの黒幕達に革新主義のライヒが愛されるわけがありません。
 歌劇を信用せず非常に厳格に作られたライヒの音楽そのものが普通のオペラの要求に答えられる訳ないのは明らかです。一九八六年にライヒが述べたぶっきらぼうな発言を思い出さずに入られません。ライヒはこう言いました「私は、グラスのようなシアター作曲家ではありません。シアターを私の中に入れたくないのです。」実際「The Cave」には非常に深い反ドラマ性に満ちています。物語性があるわけでもなく、かといってないわけでもない、多くの音楽劇が持つ暴力的なまでに展開する力も無く、この作品は音楽と同期した静的教訓的ドキュメンタリーみたいなものなのです。
 やはり創造行程の全段階において慣習的オペラに疑義を呈することを選んだライヒに賛辞を送るべきでしょう。もし「The Cave」が全面的成功を収めなければ、これは二十一世紀ミュージック・シアターの新亜種を作ろうとする大胆で夢想的な企画という程度だったのです。芸術的創造と冷酷な政治的現実が悲劇的な対面をすることになろうとはライヒも予想できませんでした。
 一九九四年二月二五日朝、キルヤト・アルバのイスラエル入植地出身のユダヤ教狂信者がヘブロン近くに来ました。その人はマクペラの洞窟に真っ直ぐ向かい近代中東史上最悪の虐殺を行ったのです。中のモスクで祈りを捧げていた二九人のイスラム教徒を殺害したのです。この虐殺が起こる前は「The Cave」が政治的議論を巻き起こすことなど無かったのです。ライヒは言います、「私達は論議を呼ぶかもと非常に懸念していましたが、結果としては何も有りませんでした。ヨーロッパにもアメリカにもこの作品を見たアラブ人は多くいたはずですが。」
 「The Cave」初演が終わった後にこの虐殺がひどい余震のように現れたのです。ライヒとコロットはこの凶行に対し、ニューヨーク・タイムスに「アブラハムの洞窟での凶器に対する考察」という記事を投稿しました。ここで二人は、芸術は政治事象の反映であるかもしれないが世界事象の流れには何のインパクトも持ち得ないというライヒの深い信念を再記述しました。こう書いています。

 私達は「The Cave」や他のどんな芸術作品も中東和平に対し直接影響を及ぼすことが出来るとは考えません。パブロ・ピカソの「ゲルニカ」が市民への空爆に何の影響も与えなかったように、クルト・ワイルとベルトル・ブレヒトや多大勢の芸術家の作品がヒトラーの勃興を止められなかったように。これらの作品はその芸術性によって生き残り、これらを見たり聞いたりした人々の幾人かに影響を与えるでしょう、ある人の心に灯った炎が他の人の心に火を点すように。

 一九六〇年代半ばにミニマリズムに火がついた場所でもあるロウアー・マンハッタンのロフトやギャラリー。そこからそう遠くない旧市庁舎の道を挟んだ所にある改築された産業ビルにライヒとコロットは住み作品を生み出しています。ライヒの小さいスタジオはテープ装置、コンピューター、アップライト・ピアノなどで囲まれ特にシロフォンが目立って置いてあります。
 常にエネルギッシュで物事をはっきり言うこの作曲家は多くの文章で自分の意見をしきりに述べています。自分の音楽同様、ほとんど感情を表しません。ライヒの情熱は感情ではなく知性を通して現れるのです。ドライでやや皮肉なウィットの持ち主ですが自分の考えを強く素直に、ひるまぬ誠実さで述べる人物でもあります。
 ライヒは「The Cave」ほどの巨大プロジェクトに五年も専心するリスクを予想していました。長引く作曲的沈黙による商業的問題を気に掛けていたのでしょうか。

 確かに心配していました。「The Cave」は成功するだろうと考えていましたが。しかし自分がすべきことをしなくてはなりません。自分のためにミュージック・シアターの問題を解決したかったし、上手く正しくやらねばと思っていました、その結果非常に長期間のプロジェクトになったのです。ヨーロッパでは全く負担がかかりませんでしたがアメリカでは少しかかるかもしれません。アメリカでの「The Cave」上演は非常に困難で高くつく度合いが増すのです。

 アメリカには国から補助が出る劇場が無いので「The Cave」は甚だ高くつきます。上演毎に二十万ドルかかるのです。ニューヨーク初演後アメリカではどの劇場も再演していないという事実がこのことを証明しています。又これはもう一つのもっと厳しい現実をも映し出しているのです。つまりライヒにはグラスのようなコマーシャル的アピールの才能が無いのです。ライヒは分かり易い楽譜を書く作曲家でもないし、ポップカルチャーの世界的有名人とコラボる人でも無いのです。ライヒとライヒの音楽は特殊な審美眼を持つものになったのです。
 もちろんこの事は作品価値とは何の関係もないし、実際のところライヒの独創性溢れる偉業の十分な証拠と言えるでしょう。ミニマル第一世代の人々は今日のファッショナブルな流行ではなく、自分の道を、しばしばイバラの道ではあるが、自分の内的世界への道を選んでいます。その中でもヤングとライヒは最も非妥協的人物になったのです。ライヒはため息混じりに言います「幾人かの同時代人は旧態依然とした作品を書いて満足してしまっていますが、そういう人達にはそれなりの場所があります。ただ私はそういう作曲家ではありません。慣習に疑義を挟む、これが私の最大の作品なのです。」
 ライヒにとって作曲とはじっくりと骨を折り且つ論理的工程を経る物です。元々沢山の委嘱を引き受けるのが不得手なライヒは自分が興味を持った数少ないプロジェクトの実現に多くの時間を費やします。最近までミュージック・シアターの上流階級世界を避けてきたので結果的にこのオペラ界でずっと作品発表してる人々に効果的なスポットライトを当ててきたことになります。
 そしてこのオペラに、ミュージック・シアターに、多くの時間とエネルギーを注いできた人こそがフィリップ・グラスその人なのです。

四章フィリップ・グラス ミニマリスト
 フィリップ・グラスはただの作曲家ではありません。一九九〇年代までにグラスは皆が羨む大衆文化の奇才的地位を手に入れました。グラスほど沢山のアルバムを売ったり、クラシック音楽ゲットーを越えたより大きな文化世界に影響力を持っている作曲家はいません。作曲家達が社会の辺境で働いている時代に、フィリップ・グラスはロックやニューエイジからクラシックまでの幅広くトレンディなファンを持つ唯一の幸せな例外なのです。当然ながらグラスは文化的アイコンになりました。カティ・サーク・スコッチウィスキーの広告に出、腕時計スウォッチ用のメロディを作り発表しました。現代の作曲家はいつから日用人気販売商品になったのでしょうか。
 グラスが受けてきた正統クラシック音楽教育を考えると、彼の地位は非常にユニークです。一九三一年一月三一日バルチモア生まれ、リトアニアとロシアからのユダヤ系移民の孫です。グラスが最初に触れた音楽はラジオ修理店を営んでいた父ベンからでした。父ベン・グラスは修理サービスだけでなくレコードも売っていたのです。店のレコードが古くなり売れなくなると家に持ち帰り三人の子供に聞かせたものです。そんなふうにしてグラスはシューベルト「ピアノトリオ変ホ長調」(彼が覚えている最初の音楽体験で四歳頃でした。)、ベートーベンの弦楽四重奏曲、のちにエリオット・カーターの四重奏曲やシェスタコービッチの交響曲を聞くようになりました。十二歳頃には父の店のレコードコーナーで働きながらポップからクラシックまで幅広く音楽を聞くようになっていました。
 グラスは既に早熟な音楽才能を見せていました。六歳でヴァイオリンを学び始めた後すぐにフルートに転向し、ピーボディ音楽予備校に入学しました。しかしフルート・レパートリーの少なさに失望し今度はピアノに転向しました。十四歳の多感な時にシカゴ大の入学試験に通り、彼がまだ十五歳だった一九五二年秋から大学で研究を始めました。
 シカゴでは音楽だけでなく数学や哲学も専攻しました。空いた時間にはピアノを練習し、アイヴスやウェーベルンの音楽に触れました。自活するため給仕や飛行機に荷を積むアルバイトをしました。一九五六年六月、十九歳で卒業する頃には作曲を始めていました。カルフォルニアから遠い所にいたヤングのようにグラスはウェーベルンの音列主義に最も影響を受け、シカゴを去る前に作曲した十二音弦楽三重奏曲にはその影響が見られました。
 一九五四年グラスはパリを訪れフランス語を学び、少しの間ジャン・コクトーの花柳界にはまりました。「コクトーの映画『オルフェ』にみられる放浪人生に憧れていて、で、つるんだのはその映画の登場人物みたいな人々でした。画家のアトリエを訪ねて作品を鑑賞したり、美術学校のダンスパーティーで夜を明かしたりして走り回っていました。」と九四年に思い出を語っています。ちょうど十年後にパリに戻る事になるとは、そしてその六四年の旅行が歴史的に重要な出来事になるとは、グラスにも全く予想もつきませんでした。
 ライヒと同様、グラスもジュリアード音楽院に行き作曲へと向かいました。グラスとライヒはクラスメイトであるだけでなく師事した先生も(ウィリアム・バーグスマとヴィンセント・ペルシェッティ)も同じでした。ヤングがバークレーで忙しく騒いでいたのとは反対にグラスはジュリアードで問題を引き起こすことはありませんでした。ヤングとは違いグラスはモデル的作曲科学生でした。音列主義に興味がなくなるとコープランドやウィリアム・シューマンといったジュリアードの「良きアメリカ」偏愛路線に完全に合った調性音楽を聴くようになりました。
 「私は優等生であり何時も成績A+の生徒であり、A+の作曲をしていました。当時は先生の真似をしながら作曲を学んだので先生は喜んでくれたし、ある意味先生へのオマージュでもありました。私が言えることは、こういう作曲は誰か他の人が書けばいいという事です。こういう音楽に時間を割く価値があるとは思えません。」と一九八〇年に言っています。
 確かにグラスはジュリアード時代多作でした。七十曲ほど作曲しその大部分は演奏され、ペルシェッティ先生のつてによりElkan-Vogelから多くの楽譜が出版されました。「これらの曲がどうなるのか、ほとんど分かりませんでした、当惑させるような物ではないにしろ決して私の見本ではありません。あの出版社から取り戻せるならそうしたい気持ちなのです。」
もちろんニューヨークにはジュリアード以外にも音楽生活を送る場所があります。ライヒと同じようにジョン・コルトレーンを聴きにダウンタウンのヴィレッジ・ヴァンガードに行きました。しかしヤング、ライリー、ライヒほどジャズに影響されませんでした。極めて偶然なのですが、一九六一年五月グラスがオノ・ヨーコのロフト・コンサートに参加したその日の夕方、ヤングはちょうど「Composition 1961」をやっていました。グラスは言います、「彼は音楽を演奏せずただ線を引いてるだけでした。こんな事をする人がいるなんて凄いと思いました。二三歳の私にとっては非常に前衛的でした。とてもショックを受けたので今でも覚えています。」
 一九六〇年夏グラスはコロラド州アスペンを訪ねダリウス・ミヨーに師事しました。一年後ミヨーはミルズ・カレッジに移りライヒに教えるようになりますが、ライヒは別に何の影響も受けませんでした。しかし一九六〇年、ミヨーにはまだ最後の力が残っていました。既にフランスびいきの傾向を見せていたグラスはミヨーに一九二〇〜三〇年代のパリについて、またコクトーとのコラボレーションについて質問しました。そしてグラスはミヨー指導のもと、ヴァイオリン協奏曲を書き管弦楽化して飛びぬけた作曲能力を示し続けたのです。
 このように少し偏狭ではありますが敬意に値する音楽学校作曲家学生の生活を送っていたことがわかりますし、一九六一年に修士号を得るまでグラスに大きな変化は起きませんでした。一九六二年から六四年まで、若い作曲家を公立学校にというフォード財団プログラムの受給者としてピッツバーグに住みました。今度は学校使用音楽の量産がグラスの仕事になりました。つまりアマチュア学生演奏用の曲作りです。グラスの作品は大体調性がありコープランド風で、学校バンドにはマーチを、地域オーケストラには「Convention Overture」を作り、“比較的難しい”弦楽四重奏曲や室内楽曲も作りました。この時の曲もElkan-Vogelから二十以上が出版されていますがグラスはこれら全てをずっと認めていません。
 二七歳の時グラスは働く作曲家且つ社会の生産的一員で、誰も傷つけないような曲を簡単に作曲していました。
 この経歴から見るとラディカルな方へと追求し出すような要素は全く無かったのです。ヤングは一九六四年までに永久音楽劇場を設立し、ライリーは「In C」作曲中で、ライヒはテープ・ループ実験をしていましたが、グラスはいまだ慣習的アメリカ風の作曲をしていました。
 一九六四年に作曲トレーニングを一からやり直したところをみると、グラスは行き止まりまで来てしまったと感じていたに違いありません。で、それにはパリ以上の場所があるでしょうか。二年間のフルブライト奨学金のおかげでフランスに行きナディア・ブーランジェに師事することが出来ました。彼女は二十世紀で最も高名な作曲教師でアーロン・コープランド(1900-1990)やヴァージル・トムソン(1896-1989)から始まるアメリカ作曲家数世代を独力で教えてきました。グラスが自分に欠けていると思っている厳格な手法を上手く教授できる人がブーランジェの他にいるでしょうか。彼女は冷厳な対位法管理体制をとる事で名を知られ、グラスは過去に彼女を“モンスター”と表しました。今日グラスは当時を思い出しながら寛大に認めて言います「私が彼女から教わった基礎的作曲技法を習得していなければ、今書いてるような曲は作れなかったでしょう。」しかしながら彼が師事していた時の回想を読むと彼女が恐ろしいレベルの修練を要求していたことが分かります。八七年に出版した自伝『Music by Philip Glass』にこう書いています、

 私のジュリアードでの業績は彼女にとって何の価値もありませんでした。バロウ通りにある彼女のアパート兼スタジオで初めて午後を共にした時を覚えています。彼女は当時七九歳、半世紀遅れの服装をエレガントに着こなしたタフで貴族的なフランス女性でした。静まった中で彼女は私の持参した楽譜を読み続けました。私はこの幾つかの譜面を誇りに思っていたのです。永遠に続きそうな沈黙がやっと終わると、ある小節を捕らえて意気揚揚とこれを指差しながら言明しました「ここです、これは真の作曲家が書いたものです。」
 その後の二年間でこれが私に言った最初で最後の誉め言葉でした。その日から対位法と和声の初級レッスンが始まり、又、音楽分析、聴覚訓練、スコア・リーディングなど彼女の考えうる物全てを学び続けました。彼女の教授法は完璧主義でしつこいものでした。二六歳(ママ)の若い男から子供に逆戻りし一から学び直しました。そして私がパリを去る一九六六年の秋には技術を再習得し、数年前には想像もつかなかった方法で(音を)聞くようになっていました。

 グラスは週三回ブーランジェに会っていました。一回目は個人レッスン、二回目は一般クラス(彼女に師事した人は誰でも入れる)、三回目は特に選ばれた六人の生徒を挑発し拷問にかけるための悪名高い「暗い木曜日」特別講座です。一九六五年のある日グラスは完成した課題を持って彼女の和声の授業に出ました。

 彼女は潜在並行五度という所に私の間違いを見つけました。そのページをだまって精査した後こちらを向きました。理解と哀れみの表情を浮かべながら私がどう感じているか聞いてきました。「調子はいいです、マドモアゼル」と私は答えました。彼女は尋ねました「熱があるのではなくて、頭痛とか。」何が起きているのか私は見当もつきませんでした。「良い精神科医を知っていますよ。セラピストに会うのは十分内密にしますし、全く当惑する必要はありませんよ。」私はそんな必要は無いと彼女に説明しました。ついに彼女は言いました「理解できませんね。」と彼女はくるりと振り返り私の間違えを指して「この間違いを生んだ精神状態を説明していただけますか。あなたは非常に取り乱していて現実離れしてしまったのではないですか。あなたが自分のしている事を本当に認識しているのならば、こんなことは起こり得ないのですよ。」

 少なくともブーランジェがモデルとして挙げた主な音楽家はパレストリーナ、モンテヴェルディ、モーツァルトといったグラスの好きなものでした。これはパリ現代音楽シーンについてグラスが言える以上のものでした。当時はピエール・ブーレーズの狂信的音列主義が支配していました。一九八四年グラスはブーレーズの新作音列作品「Domaine Musicalle」を「溢れんばかりの狂人や変人がこんなクレイジーで薄気味悪い音楽をあらゆる人々に書かせようとしている荒野」と評しました。グラスはシカゴにいた十代に音列主義を研究してしまっていたのですし、それ以降どんな無調音楽にも興味を持ちませんでした。「私にとって、現代の音楽という点では(音列主義)は自ら時代遅れになったものなのです。結局のところアーノルド・シェーンベルクは私の祖父とほぼ同じ歳なのですから!」
 ブーランジェとの二年目に突然思いがけないことが起こりグラスの音楽地平を広げたのです。一九六五年秋映画監督コンラッド・ルークスが映画『チャパクア』(評論家エドワード・ストリクランドはこの作品を“クスリ狂の叙事詩”と雄弁に述べています)の音楽監督としてグラスを雇ったのです。グラスは自分の楽譜を作るだけでなく、インドのシタール奏者ラヴィ・シャンカールがこの映画に作った音楽を西洋の楽譜に移し起こさなくてはなりませんでした。グラスの音楽翻訳が無ければ、サントラに録音予定だったフランス人音楽家はシャンカールの曲を理解できなかったでしょう。で、この仕事は非西洋音楽を実質何も知らないと自認する若い作曲家に与えられたのです。
 グラスはシャンカールとタブラ奏者のアラ・ラカと数ヶ月を過ごしました。インド音楽は西洋とはとても異なったリズム原理に従って構築されているとグラスは徐々に分かってきました。グラスの理解が進むに連れてインドのリズム構造は加算プロセス、つまり一拍一拍が結びついて行くことでより長いリズム構造を作り出していることが分かりました。『Music by Philip Glass』でこの発見を書いています、

 西洋音楽とインド音楽のリズム用途の違いを以下のように説明してみたいと思います。西洋音楽では時間を分割します、つまりある長さの時間を取り出してパン一斤をスライスするかのように分割するのです。インド音楽(と私の良く知ってる非西洋音楽)の場合、小さなユニットつまり“拍”を取り出し結び連ねてより大きい歴時を作り出すのです。
 ラヴィとアラ・ラカ二人とレコーディング作業している時この事が極めてはっきり感じられました。スタジオには私が録音用に音楽を記譜するのを音楽家達が座って待っていました。ラヴィが歌ってみせ、私が少しずつ記譜していきました・・・。西洋音楽で何時もしているように小節線を引こうとしたとき、問題が起こりました。この音楽は正統なアクセントが無いのです。この音楽を再演するとアラ・ラカはすぐに間違いを見つけるのです。私が小節線(つまり通常西洋方式で音楽を“分割”すること)を何処に置こうともアラ・ラカは私を捕まえて、「全ての音は平等なのです」と甲高い声で何時も言いました。
 最後にはやけになって小節線を全部取り払いました。その時、目の前で、私はアラ・ラカが言わんとしていた事が理解できたのです。八分音符の明確なグループ化をやめた時、定期リズムパルスが流れ現れてきたのです。

 定期連続パルス流はすぐグラス自身の音楽基盤になりました。グラスの新しい還元的リズム反復スタイルの徴候が一九六五年サミュエル・ベケット『芝居』パリ舞台用伴奏音楽に初めて見られました。このリー・ブロイアー演出『芝居』はあるアメリカ実験劇団体(一九六七年ニューヨーク凱旋公演の後マブー・マインズとして知られるようになる)が作った最初の作品でした。この団体メンバーにグラスの最初の妻ジョアン・アカラティス(後にニューヨーク、ダウンタウンのシアター界で力のある人物になり、ついにはザ・パブリック・シアターの監督を引き受けることになります)がいました。
 グラスはすぐにマブー・マインズの非公認座付き作曲家になり二十年以上に渡りこの団体に沢山の曲を書くことになります。しかし一九六五年の『芝居』用音楽は聞いた人全てにショックを与えました。「それも当然ですね。例えば『芝居』では二つのソプラノ・サックスがそれぞれ旋律を奏しますが、旋律には2つの音しかなく、それぞれのパルス音程が交互に吹かれます・・・。その結果多様なリズムに満ちた非常に静的な作品が生まれました。」
 『芝居』を聞いた音楽家は驚くだけでなくひどく激高しました。グラスは一九八〇年に思い出して言います、

 反復構造と単音程関係に本気で取り組んで音楽家達にこれを持ち掛けると、彼らは本当にひどく怒り出して決して演奏しようとはしませんでした。元々私はそういう怒りに慣れていませんでした。こんなにシンプルでこんなに明瞭な音楽の何処に怒る要素があるのかと思いました。もちろん確かに怒りたくなる部分があるのですが。たぶん私は意図せずに−理解するのも難しかったのですが−モダニストの多くの型に挑戦していたのでしょう。

 グラスは一九六〇年春にブーランジェの授業を終えましたが、自分が作り始めていた(彼女にとっては)裏切りの音楽言語について彼女には言いませんでした。一九六六年秋グラスはミニマリズムがもうそこまで来ていることをほのめかすような弦楽四重奏曲を完成させました。この曲の二つの楽章は六三個のモジュールからできています。それぞれのモジュールは七〜十小節で作られ、明確な音楽フレーズ反復で構成されています。この反復回数と静的非展開的雰囲気はミニマリズムに向かいつつありました。しかしながら、この曲の半音主義、不協和音、エレガントな対位法はグラスがニューヨークに移ってから作り始めるラディカルに還元的な作品とはまだ非常に異なっていました。
 グラスとアカラティスはニューヨークに戻る前にアジアを旅しました。この前年二人はモロッコに寄り道して、グラスは(ライヒのように)北アフリカ音楽と反復、幾何学パターンのイスラム芸術に魅了されました。そしてシャンカールはインドの素晴らしさを発見するよう二人を刺激しました。一九六二年来グラスはヨガをしていましたが一九六六年になって初めて仏教瞑想を研究し始めました(今日でもグラスはチベット仏教の敬虔な信徒です)。
 パリを発つ寸前の一九六六年秋グラスとアカラティスはスワミ・サチダナンダに会いスリランカに道場を持っているスワミはそこで研究するよう二人を招待しました。

 私達は古典的な陸路ルートでインドに向かいました。列車でトルコを貫け、バスでイラン、アフガニスタンを通りカイバル峠を越えてパキスタンに、そしてパンジャブ地方へ入りました。ニュー・デリーに着いた時スワミ・サチダナンダから手紙が来ていました。「親愛な生徒よ、あなたも喜んでくれると思いますが、私はニューヨークで素晴らしい歓迎を受け、ここで学校を始めることにしました。ですからセイロンに行く必要はありませんよ。どうぞニューヨークに戻って来て下さい。ここで私と研究しましょう。」まぁ、しかしインドを見ずに帰るつもりはありませんでした。

 そんなわけでグラスとアカラティスは旅行し、ヒマラヤ山麓を訪ね、いろんな道場に宿泊し最後にダージリンにまで行ったりして四ヶ月を過ごしました。一九六七年初頭ニューヨークに戻り、グラスはミニマル作曲家としてのキャリアを積んでいくのです。
 ニューヨーク帰還後すぐの一九六七年三月十八日、グラスはパーク・プレイス・ギャラリーで行われたライヒの音楽演奏会三回公演の二回目に参加しました。ジュリアード大時代からグラスはライヒと交流を持っていませんでしたが「Piano Phase」のピアノ四台版ライブ演奏を含むこの演奏会に痛く感銘しました。その後グラスは自身の近作をライヒに見せるために一緒にやろうと提案しました。ライヒはこの出会いを思い出して言います、

 グラスはヨーロッパ時代に書いた一番新しい「String Quartet」を私に見せてくれました。確かに不協和音が減った過渡的作品でした。私は彼に言いました「君はもう少しシステマティックなものを作り出すべきだよ」たぶんこれがお互いを知らないまま作った共同線だったのです。

 こんなふうにして現代音楽界に偉大な対抗馬が生まれたのです。しかしライヒはこう公言しています、グラスは自分の新しいミニマル言語がライヒから影響を受けている事実を故意にあいまいにしようとしていると。「一九六七年当時私が与える人で、彼は受け取る人でした。全く誠実さを欠く態度です。ヴィドゲンシュタインはかつて言いました、『なぜニュートンはライプニッツを認めないのか。取るに足りないことではないか。認めるのはとても小さな事ではないか。』しかし当時の彼には非常に大きなことだったのでしょう。つまりグラスは影響を認めないという偉大な伝統に連なる人物なのです。」と苦々しげにライヒは言いました。先人の影響を認めたがらないグラスに憤慨しているのはライヒだけではありません。ヤングでさえ彼のことを皮肉を込めて、怒るというより面白がって言います「彼は何も認めたがらないよ。完全な真空から生まれてきたから、先人はいないのさ。彼は否認をどう感じているか自覚しているよ。彼が自分でしたことは素直に分かっていると思う。彼はライヒのグループで演奏してたんだから、影響を否認するなんてありえないだろ。」
 グラス自身はこう言っています、歴史順に影響の直接線を引いていくのは簡単です。また強調してこうも言います、同時期にミニマル語彙を展開させていた人は沢山いました。一九八八年にグラスは「ニューヨークに戻った時、ざっと数えて三十人位は似たスタイルで作曲していましたね。」と言ってました。

 当時を思い出せば、とても強い同世代間探求があってみんながこの音楽をしていたのが分かるでしょう。不幸にもメディアは一握りの人々だけに集中しました、私はフェアなことだとは思いませんが、というのは・・・当時のこの音楽の多様さと生命力を映し出していたとは思えないからです。ですからこのごちゃごちゃしていた中でオリジネイターが誰かなんて私には馬鹿げたことなのです。

 もちろんライヒは馬鹿げたこととは思っていませんし、このグラスのコメントはライヒからの影響を隠す“スモーク・スクリーン”であると言います。確かにライヒとヤングがみせる怒りのある程度はグラスの商業的成功に対する単なるジェラシーなのです。しかし究極的には音楽によって証明されています。年代を追ってみればライヒの意見に分があります。
 グラスはニューヨークに帰るとすぐパリ時代の曲とは似つかないほどに自分の音楽スタイルをラディカルに簡素化しました。「String Quartet」の半音主義と不協和音は簡素な協和音傾倒により否定されました。つまり相互にかみ合う対位法はユニゾンや平行移動テクスチャに取って代わられ、テンポは速くなり音量はダイナミックになったのです。そして今グラスは作曲にシステマティックなアプローチを取り始めました。ライヒの位相ズレを使うのではなく、インド音楽から学んだ加算リズム構造に基づくオリジナルな音楽工程を発明したのです。
 この第一歩はアンプ増幅ソロ・ヴァイオリンの「Strung Out」(1965)でした。これは小節線が無く八分音符が速く低速でず〜と弾かれるだけの曲で、グラスのトレードマークである加算プロセスによってたった五つの音が定期反復進行していくのです。同じ手法が「T+T」(1968)にも使われました。これはアンプ増幅したテーブルの上を叩くだけの作品です。「Two Pages」(1968)も非常に簡素厳格です。これはエレクトリック・キーボードと木管が一本の旋律を縮めたり伸ばしたりしながらユニゾンで演奏するだけです(この作品はオマージュ作品でグラスは元々「Two Pages for Steve Reich」とタイトルをつけていましたが1969年までには何のコメントも無いまま「Two Pages」に縮められていました)。
 グラスの加算(減算)プロセスはどのように働いているのでしょうか。これは音楽モジュールの反復回数により長さが伸縮するのです(例えば「Two Paegs」の場合モジュールが百七個ありますが反復回数は決められていません)。四音からなるモジュールがあって突然五番目の音が付け加わったとしましょう、そうすると次にその新しい五音配列が反復されるのです。もし逆に四音モジュールから一音減ずればその新しい三音配列が繰り返されるのです。ミニマルに典型的な速い八分音符連続のリズムは一定で音量は絶えずデカく、テクスチャーは簡素なユニゾンで、話題にするようなハーモニーも無い、このグラスの初期作品は今日までのどのミニマル作品よりも革新的です。
 グラスとライヒは共同出資し最初の数年間は同じバンドを共同で使いました(このバンドの中心は一九六六年来ライヒと一緒にやってきた人々でした)。まもなく二人はソーホーにあるフィルムメーカーズ・シネマテークでそれぞれコンサートをしました。一九六八年五月十九日グラスの夕べは自曲だけのニューヨーク初コンサートでした。曲目には「Strung Out」がありました。グラスによるとこの曲は、本当に「壁に貼られた譜面を十五フィート(約4.5メートル)壁沿いに弾いて行ってから右折し弾き続けるL字型のものでした。」「Music in the Form of a Square」(エリック・サティ「Music in the Shape of a Pear」をもじった)も演奏されました。これは十フィート(約三メートル)四方に譜面が張られ、グラスとジョン・ギブソンがフルートを吹きながら「私達は逆方向に角を曲がって歩いて行きスタート地点に戻った時に曲が終わります。」グラスはこの夕べを要約して書いています「非常にコンセプチュアルで聴覚視覚的にもとてもかっこいいコンサートでした。聴衆のほとんどはアーティストで約70人位でしたが、小さいフィルム・メーカーズ・シネマテークが超満員に見えました。」
 ライヒ同様、一方では必要に駆られて(メインストリームの団体は関係を持とうとしませんでした)、もう一方では主義としてグラスは自分のアンサンブルで演奏しました。作曲家が自曲を自分のバンドで演奏するという理想はクラシック界では見られませんがロック界では普通のことですし、実際グラスアンサンブルの甲高い音は既にライヒバンドの穏やかなアンプ増幅とは非常に異なる物になっていました。携帯型ロック系エレクトリック・オルガン、アンプ増幅木管からなるグラスの技巧バンドは吹き荒れる激烈な永久機関のようでした。
 ジャズに大きく影響を受けたライヒ、ライリー、ヤング達とは異なりグラスはいつもロックにより大きな親近感を感じていました。彼がしばしばロック・クラブで演奏しデヴィッド・ボウイやブライアン・イーノといったロック・アーティストに影響を与え、又のちにデヴィッド・バーンやポール・サイモンといったポップ・アーティストとコラボレーション(「Songs from Liquid Days」(1985)し、八〇年代初頭ロック・バンドのポリ・ロックをプロデュースしたりしたのも不思議ではありません。グラスのアンサンブルにパーカッションはありませんが、このパルス・リズム、執拗な反復、耳をつんざくような音量、エレキ・キーボードは、ポピュラー音楽界で商業的成功を収めているロック・ミュージックへの強い親近感の現われです。
 しかしそれでもまだグラスの商業的成功は夢のまた夢でした。グラスとライヒはチェルシー・ライト引越し会社の従業員であっただけでなくグラスは配管工もしていました。グラスは後に回想して言います「ある日ソーホーにあるロフトに皿洗い機を設置しに行きました。作業していると突然騒音がして見上げると「タイム」誌の芸術評論家ロバート・ヒューズが不信な目で私を見ていました。『おまえフィリップ・グラスじゃないか!ここで何してんだ?』皿洗い機を設置しているところだったので、すぐ終わりますと言いました(私はいつも締め切りを気にしていますから)。『でも君はアーティストじゃないか、私の皿洗い機設置なんか君にさせられないよ』」
 一九六九年〜七〇年の間、まだ分裂していない(そしてバンド名も決まっていない)アンサンブル用に共同提携してくれる場所が増えていることにグラスとライヒは気付きました。ダウンタウンの会場ならザ・ニュー・スクール、アップタウンならホイットニーやグッゲンハイム美術館とその多くはオーソッドックスじゃない場所でした。(一九七一年、初のヨーロッパ・ツアー後このバンドはフィリップ・グラス・アンサンブルとスティーブ・ライヒ&ミュージシャンズの二つに分裂しました。)グラスはこういったニューヨークのコンサートで六九年、七〇年に作曲した一連のミニマル・マスターピースを演奏しました。今までで最も大胆な還元性でショックを与えかつアグレッシブにドライブする作品群でした。
 例えば「Music in Fifth」(1969)は八分音符をずっと連射し続ける二つの旋律からなり、それぞれの旋律は加算減算プロセスで拡大縮小しながら明白な平行五度で走り続けるのです(評論家ティム・ペイジは言います「グラスは「Music in Fifth」をブーランジェに対するからかいのオマージュと認めています。この曲は全編平行五度で書かれていますが、この平行五度はブーランジェが丁寧に教えた伝統的対位法にとって大罪なのです。」)。「Music in Contrary Motion」(1969)は二つの八分音符が滝のように流れ出して、この二つの旋律が伸びたり縮んだりしますが、今作は平行ではなく逆方向に移動していき、この下にベースラインがドローンのように付加されます。「Music in Similar Motion」(1969)はテクスチャが更に厚くなり八分音符のユニゾンで始まり四声部に拡大しながら全て同じに動いていきます。
 今日でもグラス初期作品はまぎれもないミニマル宣言書なのです。これは確かに、純粋真黒なキャンバスと同じくらいの極端に完全且つ厳格な形式を備えています。楽器、リズム、テンポ、音量のいずれも全く変化せず、西洋音楽のゴール趣向展開モデルを否定し、時間の流れを浮遊させる一様無方向状態を促進するのです。
 しかしグラスの初期作品を単調な反復と片付けるのは容易過ぎます。見かけほど簡素ではないのです。一聴したところ、執拗な反復がただ催眠作用を催すだけのように見えますが注意して聴けば微妙な差異が沢山あることに気付き始めるでしょう。全く同じ反復はほとんど無いことに気付くのです、つまり叩くようなパルスは定続していますが、ぐるぐる回るメロディは常に長さが変化し音色は揺らめくオーロラのダンスみたいです。ある種の恍惚とする礼拝儀式のように、この音楽は心を解き放ち新たな精神状態への超越を狙っているのです。催眠的でクスリをキメた感じに聞こえるかもしれませんがこの真価は精神を麻痺させるのではなく高めることにあるのです。
 「Music with Changing Parts」(1970)でグラスは加算プロセスを取り上げ勇壮な大きさにまで拡大しました。(反復回数は決められていないのでこの曲は一時間にも二時間にもなりうるのです。)最初で最後でしたがグラスはこの曲の木管と声のパートに(ドローン系の長いトーン)即興を多少付け加えるのを許しました。一九七一年三月グラスがこの曲を英国に持って行った時デヴィッド・ボウイとブライアン・イーノはロンドンの王立芸術大学でこの曲の演奏を聴いていました。この後すぐ、二人の作品にドローンと速いパルス反復が使われだしたのは偶然ではありません。
 グラスはやはり「Music with Changing Parts」の即興要素にワクワクしませんでした。一九九三年にグラスは言いました「私的にはチョット空間的過ぎました。私達はもうそんなに演奏していません。しかし私が成長するためには非常に重要でした。自分の作っている曲が一時間かそれ以上も注意を引き付け得ることがわかったのです。そして「Music in Twelve Parts」、オペラへと直接つながっていきました。」
 一九七〇年初頭までにグラス・アンサンブルはエレクトリック・キーボード(グラス自身も弾きます)、アンプ増幅木管、歌詞の無いヴォーカリーズを歌う女性二人を標準装備したグループになっていました。更にこのグループにサウンド・デザイナーのカート・ムンケイジ(今日グラスのプロデューサーも務める)、少し遅れて音楽監督マイケル・リーズマンが加わりました。
 ムンケイジのつてでグラスは自身のレコード会社チャタム・スクウェア・プロダクションを始めることができました。チャタム・スクウェアはグラスによると「当時商業レコード会社が触れようともしなかった私の音楽を広範囲に行き渡らせるため」に設立されました。一九七一年にチャタム・スクウェアが発売した二枚組「Music with Changing Parts」はのちにカルト・アイテムになるのです。一九七一年のある週末に録音されたこのアルバムはフィリップ・グラス・アンサンブルの最も耳障りで意気揚揚とした音を伝えていました。
 長髪、だらしない服装、特攻型アンプ増幅のこのグラス・アンサンブルはすぐに若く熱狂的な聴衆を獲得し、この若い聴衆は大学、美術館、ギャラリー、アンダーグラウンドなロック・クラブへとアンサンブルの追っかけをしました。しかしグラスの演奏にトラブルが無かったわけではありません。一九七〇年グラスはミニマル彫刻家リチャード・セラのアシスタントとして初めてヨーロッパに行きました。アムステルダムでキーボード曲の演奏中、一人の客がステージに飛び乗り一緒に演奏しようとしました。以前レスラーをしていたグラスは片手でその人を殴りながらもう片方で演奏を続けました。「私は殴りました、残念ながら。上手くあしらうことはできませんでしたがステージから落とすには十分でした。」一九七二年イタリアのスポルト・フェスティバルではこのフェスティバルのディレクターで作曲家のジアン・カルロ・メノッティは演奏中ずっと歩き回るし、別の人は電源を落とそうとしました。1973年ニューヨーク野外コンサートではもっとエキサイティングでした。「ある男が本当にコンサートを中止させようとしてこう叫んでいました『彼らは音楽家じゃない!演奏できていない!私は音楽教師だから、彼らが本当は演奏していないのがわかるのだ』」
 もちろんグラスが支援を求めて頼りにするダウンタウン視覚芸術の熱心な仲間達が何時もいてくれました。一九七三年春のある夜、フィリップ・グラス・アンサンブルはソーホーにあるミニマル彫刻家ドナルド・ジュッドのロフトで「Music with Changing Parts」を九〇分演奏しました。ミニマリズムに最も理解あるニューヨーク・タイムズ誌のジョン・ロックウェルはこの日のイベントをうっとりするような言葉で書きました、

 その夜のグラス・アンサンブルは長く一緒にやってきた者だけができる正確さと魂を込めて演奏しました。この音楽は特別な生命を持ちモーター回転リズムで、バリバリ音を立てて、過剰アンプ増幅で装飾し、踊り、パルスを叩き、悲しげなロング・トーンは巨大で黒い扉を通り抜けて響き、産業化されて冷たくなってる近隣を満たしたのです。ウースター・ストリートをぶらついていたダンサーのダグラス・ダンとサラ・ランドナーはこの音がとても大きかったので玄関台に座り遠くから聞こえてくるコンサートを一緒に楽しみました。道の向こうの窓には孤独なサックス奏者が無音の伴奏と即興しているかのようなシルエットが映り、まるでグリニッチヴィレッジの自由人を描いた色褪せたポストカードみたいでした。ニューヨーク・シティにいて良かったと思える夜でした。

 一九七四年六月一日グラスは初めてアップタウンにある普通のコンサート会場タウンホールに行きました。この日のイベントは大変成功を収めました。一四〇〇席のうち一二〇〇が埋まり聴衆はグラスにスタンディング・オベイションを送り、偏見の少ない批評家はしぶしぶながら支持する事を認めました。グラスはアップタウンのデヴュー曲に大傑作「Music in Twelve Parts」を選びました。一九七一年から七四年までかかって作ったこの曲は創造的アウトプットの象徴でした。「Music in Twelve Parts」はライヒの「Music for 18 Musician」と比肩しうる物です、というのは二曲とも二人がたった数年前に開拓した厳格且つ非常に還元的なミニマル世界に別れを告げているからです。
 「Music in Twelve Parts」のタイトルは語呂合わせからできました。まずこの曲は十二の旋律用に書かれています(二つの旋律がそれぞれ三台のキーボードに六つの旋律が木管(と時にソプラノ)に)。それとは別にセクションが十二まであり一セクション当たり約二十分です。全演奏するのに通常一時間のディナー・ブレイクを挟んで五〜六時間かかるのです。当時持っていたミニマル技法全てを「Music in Twelve Parts」に注ぎ込むつもりでしたとグラスは言っていますが、彼は本気だったのです。(フーガの技法をまとめ上げたバッハの「フーガの技法」になぞらえて批評家ティム・ペイジは「Music in Twelve Parts」を「反復の技法」であると言いました。)この十二楽章には相互関連あるものもそうでないものもありました。ある部分ではグラス・ミニマル初期のユニゾン書法が聞かれ、又ある所は厚く絡み合った対位法が聞かれ、加算プロセスを取ってる所もあればディミニューション/オーグメンテーションといった西洋伝統に近いアイデアを使ってる部分もありました。幾つかの楽章は初期作品のように静的不変でしたが他の楽章ではグラスは新しい技法、特にハーモニー領域へ挑戦していました。
 「Music in Twelve Parts」後半部分は遠隔調への転調や予想外のクールな半音主義など徐々に多様化し、展開性ある和声を見せます。十二番目には短いカデンツァ風進行から十二音全てを使った半音音階へと加算していくベース・ラインがあります。たぶんこれは音列主義に対するグラスなりの馬鹿にしたオマージュなのです。ジョン・ロックウェルは書いています、第十二部では「突然機能和声的で根音進行するハーモニーが、言い換えれば完全無欠の調性が噴き出すのです。ここから、オペラへと導く巨大調性有機体への道が開かれるのです。」
 ライヒの「Music for 18 Musicians」が分厚いテクスチャ、豊かな器楽編成、和声進行によって音楽工程うんぬんを無意味な物にしたように、「Music in Twelve Parts」は「ミニマリズム」という単語がもう役立たずになってしまっている事を示していました。グラス自身「私にとってミニマリズムは一九七四年で終わりでした。」とずっと言い続けています。その訳を一九八八年に述べています、「なぜならあの時以来、私はほとんど劇場作品にかかり切りですし、いつもマブー・マインズと共同で作業し、あの時以降これがほとんど完全に私の専門になっていましたし、又劇場の美学とは加算的なもので還元的(この場合非生産的、あいまいにするといった意味ですが)なものではないと感じていたからでもあります。」
 つまりミュージック・シアターの要求する物とミニマリズムの厳格さは相互排他的であるとグラスは感じていたのです。この数年後にグラスは自身の新しいマキシマリストとしての傾向を「Einstein on the Beach」(1976)で示すようになるのです。この作品はグラス初のオペラで、彼の偉業の一つでもあり、またアメリカの劇の歴史上のターニング・ポイントでもあったのです。

第五章 フィリップ・グラス マキシマリスト
 「Einstein on the Beach」以降グラスのキャリアは不可逆的にオペラやミュージック・シアターへ向かって行きました。彼は非常に成功し遂にはアメリカ・オペラの復活に決定的な役割を担うようになります。アメリカのオペラは、七〇年代までつまらなくて死にかかっていて実際のところほとんど生き返る可能性もないジャンルでした。
 「Einstein on the Beach」でグラスがコラボレーションしたのはアメリカ人で観念的舞台監督のロバート・ウィルソンでした。彼は意味の無い、極めて心象的で、叙事詩的長大さを持つ秘密めいた非ストーリー系作品を作ることで名を知られていました。こういった要素はグラスの同じように非展開型時間浮遊音楽にまさにピッタリだったのです。
 一九七四年春、グラスとウィルソンは定期的に会うようになり、自閉症児クリスファー・ノウルズ(当時十四歳)もしばしば参加しました。グラスに言わせると「全く異なった視点から世界を見ている」少年でした。グラスとウィルソンはオペラの題材として歴史上の人物に興味を持ちました。既にウィルソンは「Thr Life and Times of Joseph Stalin」(1973)作っていて、今度は主題になりそうな者としてチャップリリンとヒトラーを提案しました。グラスはガンジー(最終的にグラスのオペラ第二作「Satyagraha」の中心人物になります)を提案しました。最後にウィルソンはアインシュタインを提示し、この科学者は熱心なアマチュア・ヴァイオリン奏者でもあったのでグラスも気に入りました。
 次にグラスとウィルソンは「Einstein〜」の全体構造を設計しました。二人は時間枠を四時間(五時間に近いものになりましたが)に設定し、三つの不可解な視覚テーマ(列車、ベッドのある裁判、宇宙船のある空間)を選び、ヴァイオリンを十分弾く機会を持つアインシュタイン・キャラと全四幕を結びつける‘knee-plays’(人間の‘knee’(ひざ)のように接続機能を持つ)を作りました。そしてステージ上の全員はアインシュタインの服装(バギーパンツ、サスペンダー、半袖シャツを着てパイプを口にくわえる)をして戯れるのです。列車、ロケット、回転儀、時計を含む全ての視覚要素はアインシュタインと彼の科学発見を連想させる物です。そして全ては巨大拡張する音楽と劇の中で展開していくのです。
 「Einstein on the Beach」は伝統的オペラのルールを破壊しまくりました。このオペラは休憩無しでほぼ五時間くらいかかり、聴衆の出入りは自由なのです。通常使うような台本は無いし、歌詞はリズムを表す数字と音楽メロディを表すソルフェージュの音節単語(ド、レ、ミ)だけでした。他のしゃべりテキストにはノウルズと振付師ルシンダ・チャイルズと俳優サミュエル・M・ジョンソン達の無邪気且つ捕らえどころの無い詩が使われました。交響オーケストラとオペラ訓練を受けた歌手の代わりに「Einstein〜」では素人ヴォーカル・グループが同じ振り付けで歌い踊り演じ、フィリップ・グラス・アンサンブル(エレクトリック・オルガン二台、木管三管、女声、ソロ・ヴァイオリンを超アンプ増幅している)が伴奏します。
 人物の成長や慣習的な物語もないので、連続する音楽と繰り返し現れる視覚イメージだけがこのオペラの輪郭を形作るのです。しかしこれらの視覚イメージが象徴しているものは何でしょうか?確かにグラスとウィルソンはアインシュタイン(音楽家、科学者、皮肉にも核絶滅を可能にしたヒューマニスト)の多彩で隠喩的な視点を作り出そうとしていました。おそらく列車は原子力以前時代を思い起こさせ、何度も繰り返し現れる裁判風景は科学自身を告発し、ベッドはアインシュタインの夢のような形而上的側面をシンボル化し、宇宙船は科学の建設的な目標を表しているのでしょう。確かに第三幕では科学による核絶滅におびえる異常な状態をはっきりと描いていました。
 グラスとウィルソンはこの最も有名な作品を説明しようとして、あるいは説明の必要が無い事を主張しながら約二十年が過ぎました。一九八七年グラスは書いています、「『Einstein on the Beach』にストーリーや普通のプロットみたいなものを入れようとはまったく考えませんでした。わたしは『Einstein on the Beach』をポートレイト・オペラと見なしていました。この作品の場合私達によって作り上げられたアインシュタインのポートレイトがプロット、物語、展開といったアイデア、つまり慣習的劇場の諸手段に取って代わられるのです。また私たちはこのアインシュタイン・ポートレイトは詩的光景であると理解していました。」最後にクラスは認めています「『Einstein on the Beach』が何を‘意味’しているか考えるのはほとんど重要ではありません。『Einstein on the Beach』の場合ストーリーは聴衆の創造によって作られるのです。ですからたとえ私達が望んだとしても、ある人にとってこの話がどうなるのか予見する方法はないのです。」
 一九八四年「Einstein on the Beach」が初めてアメリカで再演された時、ウィルソンは物語の欠如が観客を自由にすると公言しました、

 オペラの中で私たちの物が最も簡単です。ストーリーを追う必要はないし、そんなものは無いから。単語を聞き取る必要も無いし、何も意味しないんだから。解くためのパズルを与えてるんじゃなくて聴く絵画を提示しているのです。美術館に行くように私たちのオペラに来る。美術館に行けばりんごの色彩や服装の線や光の当たり方を鑑賞するように、又公園に行けば人々の動きや周囲の音も変わるような風景を見、雲の流れを眺めるようでしょう。そんなふうにこの音楽を観て舞台を聴いてほしい。

  「Einstein on the Beach」を観た人にとって意味うんぬんは的外れです。記憶に残るのは無表情に進む展開と、時に息を飲むような照明によって描かれる非常に美しい視覚描写なのです。裁判シーンでは巨大モノリスのような存在であるベッドがゆっくりマジカルに浮いてくるのです。一本の蛍光灯で分離されたベッドは一見、光の水平厚板です。二十分以上かけてゆっくりと垂直に傾き最後はステージから離れ上昇していきます。
 このゆっくり展開する場面を補完するのがグラスの音楽で、彼の還元過剰な初期ミニマル要素だけでなく幅広く多用な技法や雰囲気も伝えていました。加算プロセスにより伸縮するおなじみの超活発な8分音符もありましたが、一方でより静かな呪文詠唱的セクション、例えばコーラス隊が儀式風に数字とソルフェージュ語を繰り返し歌う場面もありました。そして力のある和声進行が大スケールの構造を形作り統一するという新たな魅力も加わりました。
 グラスは「Einstein 〜」の音楽を一九七五年十一月に完成しその後の数ヶ月間、週六回のリハーサルでへとへとになりました。リハーサルの間もこの音楽は進化し続けました。元々グラスはこのソルフェージュ語と数字を曲の暗記のために使っていましたが後に合唱パートのテキストとして使いました。同じように実用的理由から、詩的注釈部分をそのまま会話部分として使いました。「私にとって大問題だったのは、ここ数年言葉を音楽に入れるなんてほとんどしてこなかったことでした。学生時代はヴォーカル曲や合唱曲をたくさん書いていましたがもう十四年以上も前の話です。最後に私はこう提案しました、私達は曲の会話部分にこのテクストを使おうと。」
 一九七六年八月「Einstein on the Beach」はフランスのアヴィニオン・フェスティバルで初演され、すぐカルトなファンを獲得しました。ヨーロッパ大陸を五ヶ所以上ツアーした後の一九七六年十一月「Einstein 〜」はニューヨークに来ました。今までのような代用パフォーマンス会場ではなく、神聖なメトロポリタン・オペラのホールで「Einstein on the Beach」の初演が行われたのです、確かにこういう特殊イヴェント系用に使われる暗くてがらんとした毎週末日曜の夜でしたが。
 「Einstein 〜」はヨーロッパで素晴らしい成功を収めたという噂がニューヨークに伝わっていたのでしょう、アメリカ人を前にしてはタウンホールより大きな場所で演奏したことの無いグラスは突然メトロポリタンオペラ・ハウス完売という目に会いました。二公演目は翌週末日曜の夜でしたがこれもすぐ完売しました。聴衆の中にはすぐ音を立てて席を立ち、中に入りたがっている人だかりにチケット控えをあげるような保守伝統主義者もいましたが、他の人達はグラスの大きくなる伝説に興味を持ったがオペラの祭典には慣れていない好奇心あるトレンド好きの人々でした。グラスは回想します、

 この夜に来ていた多くの人々は、絶対初めてオペラに来た人々でした。二回目の日曜の上演中、メトロポリタン・オペラの上級管理人と一緒にバックステージで立ちながら観客を眺めていた時、彼は私に尋ねました「この人達は誰なんですか?今までここで見てきた人々ではないようですが。」私は正直に答えました「誰なのか、あなたが確かめた方がいいですよ。なぜならば、もしこの会場をこの先二十五年経営していきたいのなら、彼らがあなたの取り込むべき観客なのですから。」

 グラスは当時、知りようも無かったのですが、再び観客を入れるのに二十五年も必要無かったのです。十六年後グラスのオペラ「The Voyage」(1992)が同じホールで上演されました。これはメトロポリタン・オペラによる委嘱初演でした。昔はみすぼらしい反逆者だったグラスは今やエスタブリッシュメントの人気者になったのです。
 一方で借金も残りました。「Einstein〜」一年間公演の勘定が九〇万ドルになりその内九万ドルをまだ払っていませんでした。さらにメトロポリタンの完売した二回公演でも各回毎に1万ドルの赤字だったので次回公演のめどがたちませんでした。この事は‘アインシュタインの借金’としてダウンタウン・アート界にすぐ知れ渡りました。ウィルソンは絵を売りグラスは楽譜を売り、アーティスト仲間は募金集めやオークションをしました。レコードを作って売れば金を返せたかもしれませんがどのレーベルも五LPセットになるだろうアルバムにかかわる気はありませんでした。(後にトマト・レコードが「Einstein〜」を四枚組に短縮して発売し二万枚以上売り上げました。)
 グラスは今までのキャリアの中で初めて名士になりましたが生活は変わりませんでした。「生活費を得るためタクシー業に戻りました、七〇年代はほとんどこれでした。はっきり覚えてることがあります、メトロポリタン・オペラで冒険した後すぐ、私のタクシーに着飾った女性が乗ってきました。運転手の名前に気付き前に寄り掛かってきて言いました『お兄さん、あなたと同じ名前のとても有名な作曲家がいるんだけどご存知?』」
 とても有名な‘オペラ’作曲家と言った方がより正確でしょう。なぜなら「Einstein〜」はグラスの欲望を今までした事の無いミュージック・シアターへと刺激したのですから。グラスは「Einstein〜」を‘ポートレイト・オペラ’三部作のただ第一回分と考え始めていました。この三部作は異なった世界で人間的努力を成し遂げた独創性に富んだ人物に焦点を当てていました。アインシュタインはもちろん科学の世界です。次作オペラ「Satyagraha」(1979)ではガンジーの人物像と政治世界を描き、三作目「Aknaten」(1983)ではタイトルが示す人物、古代エジプトのファラオと宗教世界を描きました。
 「Einstein〜」が成功したにもかかわらずアメリカの団体はグラスに二作目のオペラを委嘱しませんでした。グラスはメトロポリタン・オペラとニューヨーク・シティオペラに提案したのに断られたのです。救ってくれそうなのはオランダだけでした。アムステルダムで「Einstein〜」公演が終わるとすぐグラスはネザーランド・オペラの監督ハンス・デ・ルーに招待されました。グラスはポスト「Einstein〜」について彼とした話を詳述しました、「『やぁ、フィリップ、とても面白かったよ。さて、‘本当の’オペラを書く気はないかい。』『うちのオケと合唱隊とソロイスト、伝統的オペラ唱法で鍛えられ練習してきた人々を使ったようなものを。』」最初グラスは耳を疑いました、というのは物語も、オーケストラも、オペラ声もないこのラディカルな「Einstein〜」はちっともオペラでなかったからです。そしてこう付け加えました「伝統的オペラはどうしようもないほど死んでしまっているように私には思えます、私がいるパフォーマンス界で復活する見込みは皆無です。」
 しかしすぐグラスは自分の音楽言語をもっと慣習的なオペラの文脈に当てはめるというアイデアに惹かれました。ネザーランド・オペラによる初演が予定されているザ・シティ・オブ・ロッテルダムが委嘱料二万ドルを申し出、グラスはすぐ作曲に取り掛かりました。グラスは躊躇なくある主題を提示しました。三年前、ウィルソンは魅力を感じませんでしたがグラスはその時以後も興味を持ち続けた人物像、ガンジーです。賢明にもグラスはガンジーの全人生を抱合する叙事詩物語ではなく、ガンジーのある思想形成期にテーマを絞ることにしました。その時期とはガンジーが南アフリカに滞在した一八九三〜一九一四年で彼の政治哲学である非暴力抵抗−ガンジー言うところの‘サティアグラーハ’つまり‘真・力’−が形成された時期です。
 このオペラのタイトルも「Satyagraha」になりました。一九七八年冬、グラスは脚本家コンスタンス・デ・ジョングとデザイナーのロバート・イスラエルを伴ってインドへ行きました。ガンジー最後の道場を訪ね、ガンジー平和財団文書館で調べ、カチカリ・ミュージック・シアターでマルチメディア宗教野外劇を見ました。一九七九年初めニューヨークに戻った時には作品を具現化する準備ができていました。
 ガンジーは南アフリカ時代、国を追われたインド・コミュニティーをまとめ上げ英国政府に対し市民不服従運動をしていました。この時期は舞台に理想的な出来事が有り余るほどたくさんありました。グラスとデ・ジョングはこの中から六つのヴィヴィッドなエピソードを厳選しました。ガンジーの道場トルストイ・ファーム設立、登録証明書の政府課税抵抗誓約、白人暴徒のガンジー襲撃、インディアン・オピニオン新聞の設立、登録証明書焼却、歴史的な非暴力ニューキャッスル行進の六つです。
 確かに話はバラバラで、「Einstein〜」と同じ位(分かりにくいとは言わないまでも)不連続です。どうやってまとめ上げればいいのでしょうか?まず最初にグラスとデ・ジョングは劇内時間枠を一日つまり夜明けから夕暮れまでに設定しました。次にこの六シーンを三幕三時間に分け入れました。各幕毎にサティアグラハの擬人化である静かな人物が登場し、ステージ上空から劇を見下ろします。第一幕はレオ・トルストイ、第二幕はインド人作家ラビンドラナス・タゴール、第三幕はマーチン・ルーサー・キングです。
 作曲を始める前に解決すべき大きな問題がありました。グラスは物語り直球的台本を使う気はなく、デ・ジョングもそういうのは書きたくありませんでした。そこで二人は偉大なヒンズー教叙事詩「バガバッド・ギータ」に向かいました。デ・ジョングは登場人物にしゃべらせるのではなく、「ギータ」から個人行動の哲学的根拠となる部分を抜粋することにしました。実際「ギータ」からアルジュナ王子とクリシュナ神が戦場で会い政治抵抗のための道徳正当性について話す場面が序章として付け加えられました。ちょうど多くのバロック・オペラが作品の道徳を示す寓話で始まるのと同じようにです。
 この台本は何語で書かれるべきでしょうか?「バガバッド・ギータ」はつまるところラテン語と同じ位死んでしまっているサンスクリット語ですし、西洋の聴衆にとっては鼻につく馬鹿げた言語です。しかしこの台本は注釈的であって、アクションや人物成長を生じさせないので実際には内容を理解する必要がないのです。したがってサンスクリット語のままにしましたが、後にこれは優美に歌うことが出来る甘美な言語であることが分かりました。「最初はこれに悩みましたがだんだん魅力的になってきました。アクションから声のテキストを更に切り離していくアイデアが気に入りました。こんな風に、理解に苦労するテクストが無ければ聴衆は単語を流れるがままにしておくことができます。‘意味’の重さを音楽やデザインやステージ・アクションに投げてしまえるのです。」とグラスは書いています。
 デ・ジョングが「ギータ」から抜粋したテキストが手に入るとグラスは作曲を始めました。一九七九年八月までにオペラは完成し、十分に管弦化もされていたのですから上手くいったのは明らかです。(実際グラスは直接オーケストラ楽譜に向かって作曲したのでピアノ縮小版は後に作らねばなりませんでした。)「Satyagraha」に要する独特な音楽的課題を考慮すれば、グラスの能力は遥かに素晴らしいものだったのです。
 最初の問題はオーケストラでした。フィリップ・グラス・アンサンブルではない本物の劇場オーケストラなのです。グラスはピッツバーグの公立学校時代からつまり約十五年もこういう楽器編成に対し曲を作っていませんでした。「『Satyagraha』のオーケストラについて考えてる時、解決策が浮かびました。つまり自分のアンサンブルに書くのと同じように考えてオーケストラ化すればいいのだと。自分のアンサンブルの音に基づけば、つまり私が作り上げた音に基づけばいいのです。その時まで私の目的を十分に果たしてきたモデルより、他にもっと良い物があるでしょうか。」
 それでグラスは五十一人を要する風変わりなオケ用に「Satyagraha」を作曲しました。編成は弦楽と木管偏重(フルート、クラリネット、オーボエ、バスーン、各三管)で金管とパーカッションは有りません(グラス・アンサンブルから残ったものとして一台のエレクトリック・オルガンが加わっていました)。「Satyagraha」の甲高く鳴り響くけれどグラス・アンサンブルのようなキツさやノイジーさの無い特別な音色はこのオーケストレーションからかもし出されるのです。実際このメロウな音色はガンジーの推し進めるサトヤグラーハ哲学が持つ威厳と安らぎを音に反映したもののようでした。
 次に問題となったのはヴォーカル書法でした。グラスが十代の頃歌っていたような合唱曲とはわけが違うのです。四十人の合唱隊は実際「Satyagraha」の紛れも無い花形であり、七シーンの内四つに出てこの作品をオペラ・オラトリオとほとんど同じにしているのです。
 それ以上に重要だったのがソロ・ヴォーカルメロディでした。狭い音域を維持したままかつオペラ風にならないためにはかなりの精神力を必要としました。特にサンスクリット語テキストを暗記していなければならない時に、(「Einstein〜」のように)数字反復で曲を進めるほど簡単には行きません。二重奏から六重奏を含む合唱パートと演奏パートは簡単だったと言っていました。そしてオーケストラと合唱の上を輝きながら舞い上がるこの優美なソロ・ヴォーカルメロディに誰も異を唱えることはできなかったでしょう。
 しかし「Satyagraha」ではグラスのヴォーカル書法に問題が起こってきました。速い楽器パートは典型的で精巧なリズムを見せていましたが、動きの遅いヴォーカルパートは堅苦しく朗読調に歌われていたのです。サンスクリット語の場合はほとんど問題になりませんでした。しかしゴツゴツして凡庸な律動を持つ英語の場合はトラブルどころではありませんでした。
 ところで英語はこの先何年も問題になり続けます。それでもグラスは「Satyagraha」に今までやった事の無い楽譜を作りました。七シーン全てパッサガリアで書かれたのです。これはバロック時代の変奏様式で、ベースラインは変わらないがその上のメロディが変化する様式です。例えば第一幕シーン1では四コード進行が一四三回反復されますがその度に新しいヴォーカル・メロディが加わるのです。ガンジーの最後のアリアはもっと単純でミからミまでの上昇音階が三十回歌われますがその下では三コード進行がずっと繰り返されるのです。しかしこれは単純というものでは全く無いのです。ヘンリー・パーセルに比するぐらいの巧技が使われ、多量反復に見えても実際に同じ物は反復されていないのです。
 一九八〇年九月「Satyagraha」はロッテルダムで初演した後一九八一年夏にアメリカに来ました。この作品は特別なオペラで「Einstein〜」よりももっとグラスのコンセプトが表れていると多くの批評家が気付いたようです。デリケートで控えめな音色、広く落ち着いたヴォーカル書法、美しく整った構造、これら全てがテーマにふさわしい高徳性を投影していました。実際幾人かの批評家はこの作品を現代のワーグナー作「パルシファル」だと、オペラと言うよりミステリアスな宗教劇や野外劇に近いと評しました。
 「Satyagraha」にお話のような物語はありませんが幕毎のイベントは容易に理解できます。このオペラは登場人物の成長といったものには興味を示さず、その内容にもかかわらず葛藤やドラマもないのです。その代わりこのオペラには内省的、瞑想的描写が連なって現れ、それぞれには非暴力というテーマへの穏やかな熟慮黙想があるのです。夜明けの光輝が天空に星の瞬く夕闇へと移りゆく時「Satyagraha」の酔いしれるようなリリシズムと輝くテクスチャは半信半疑の多くの観客を包み込むのです。とどのつまりグラスは“本物の”オペラを書くことが出来るということなのでした。
 「Satyagraha」は実験的ミュージック・シアター界にではなくオペラハウス用に作曲されたという点でグラスの功績はなお一層特筆されるべきなのです。現代的テーマを取り上げ、伝統的なヴォーカルや楽器の衣装を着せればアメリカのオペラも若返り得るのだと、「Satyagraha」は示して見せたのです。「Satyagraha」が存在しなければアンソニー・ディヴィスが「X: The Life and Times of Malcolm X」(1986)を、ジョン・アダムスが「Nixon in China」(1987)を作曲することも無かったでしょう。
 しかしこの伝統の包含は相当高くつきました。「Einstein〜」は現代においてオペラの意味するものは何かを純粋に再考させましたが、「Satyagraha」ではゆっくりと時間をかけてグラスを慣習的な方へと逆行させ始めてしまったのです。これ以降グラスは自身が六〇〜七〇年代に作ったような大胆かつ還元力ある曲を二度と書かなくなりましたし、ミニマリズムという言葉がグラス音楽の的確表現として使い得る事も無くなりました。一九八〇年代を通してグラスは、昔は避けていたハーモニックでメロディックな音楽言語をゆっくりと確実に取り入れていったのです。そして八〇年代末にはあの厳格ミニマリズムが新ロマン主義的表現力を持つにまで至ったのです。この音楽語彙の拡大が彼の作品的成長を促したのかどうかは議論のあるところですが、「Satyagraha」以後グラスがメインストリームを求めているのだけはハッキリしました。
 ハードコアなファンはグラスのロックに影響されたうるさいミニマリズムが大好きだったので、「Satyagraha」の繊細さには背を向けてしまったでしょう。しかし今やグラスは二十世紀後期作曲家が知りもしないような巨大で多様な新しいファンを獲得しつつあったのです。ヴィレッジ・ヴォイスの評論家グレゴリー・サンドウは「Satyagraha」のブルックリン・アカデミー公演をレヴューし、社会におけるグラス新世界の重要性を捕らえた問いかけを提示しました。「多くの点でモダンかつ簡素であり、そしてまた最高に芸術的で卓越した品性を備えた作品が現れて、しかも劇場を満員にしスタンディング・オベイションを受け、クラシック音楽なんか一考したことも無い観客を惹き付けている時には、クラシック音楽界は今何が起きているのか尋ねてみるべきではないのか。」
 確かにクラシック界は今回そうしました。だからグラスは三部作の第三部「Akhnaten」の委嘱を割と簡単に受けることが出来たのです。シュトゥットガルト州立オペラ(音楽監督はアメリカ人のダニス・ラッセル・ディヴィス)はアキム・フライヤー演出による「Satyagraha」の新版を一九八一年に上演し、その後すぐ「Akhnaten」委嘱を決定しました。三部作全てフライヤーの新演出でグラス版「Ring」(ワーグナー「ニーベルングの指輪」四部作の通称)連作的なものとして上演しようと考えていたのです。(このアイデアは一九九〇年六月に実現され三夜連続の二回公演全て完売という成功を収めることになります。)
 グラスは第三作目のテーマがガンジーやアインシュタインに匹敵する歴史上の人物でなくてはならないと分かっていましたが、その三番手探しは思わぬ方向へ向かいました。テーマを古代エジプトに見出したのです。軍事力と宗教の合体した攻撃により十七年という短い統治を終えたエジプトのファラオ、アクナーテン(紀元前1385〜1357、日本ではイクナートンと書かれることが多い、またアクナーテン襲名以前はアメンホテプ四世。)がテーマになりました。権力の座に就くとアクナーテンはエジプトの多神教を捨て、新しいアーテン神一神教にしました。太陽神アーテンは抽象神でありアクナーテンはこの太陽神を導入することで世界初の一神論者になったのです。しかしエジプト人民、聖職者、軍隊はこの革新的概念に反逆しアクナーテンは倒され古い宗教秩序が復活したのです。
 長い間哲学者や歴史家はアクナーテンのアイデアが古代ヘブライ一神教に影響を与えたのかもしれないという観点からアクナーテンに魅了されてきました。アクナーテンは三部作の終わりにふさわしい材料をグラスに提供しました。「第一にアクナーテンはアインシュタイン、ガンジーのように自分が生まれ出た世界を永遠に変えてしまったのです。しかし私にとって重要なのは彼が武力ではなくアイデアの力で我々の世界を変えてしまったことです。」とグラスは書いています。今やグラスは科学人物、政治人物に続いて宗教人物アクナーテンで三部作を補完したのです。
 グラスは以前「Satyagraha」のリサーチにインドへ行ったように、「Akhnaten」製作初期にエジプトに行きました。カイロ美術館(アクナーテン展示室がある)、ルクソール(古代エジプトの首都)、テル・エル・アマルナ(アクナーテンが自らの首都アケト・アテンを作った所、今は廃墟化し砂漠に沈みつつある)などを訪問しました。その結果ネフェルティティとの結婚、宗教哲学の表明、彫刻の形で残っているショッキングな肉体的形容など関心をそそる非常に多くの要素が有ったのでアクナーテンの人生を詳細な物語にするのは不可能だと気付きました。アクナーテン時代の芸術でグラスが見た物は‘ふくれたもも、肥大した尻、ぶら下がる胸を持った一見両性的’な‘奇妙な外形特徴’を持つ物でした。アクナーテンの人生に関わる上記の要素だけでグラスの典型的シナリオを作るには十分でした。グラスはバラバラな象徴的エピソードを一つ一つ縫い合わせてシナリオを作りました。「私はこう思いました・・・既存のストーリー以上の物は要らないと、説明や解説の必要の無い謎の部分がテーマのミステリー性と美しさを増すのです。」と彼は書いています。
 近東史専門教授シャロン・ゴールドマンの助けを借りて、グラスはアクナーテンの嵐のような統治時代に関するテキストを集めました。その結果脚本作りは『バガバド・ギータ』の時と同じように引用文を選び出すことになりました。「Akhnaten」の大部分のテキストはアクナーテン時代から取られ、ほとんど全てエジプト語かアッカド語かヘブライ語で歌われることになりました。グラスがサンスクリット語のオペラを作っていた事を考えれば、エキゾチックな古代語使用は驚くに値しません。しかしメインストリーム界を更に目指していたグラスは、ナレーターを入れて脚本を理解しやすいようにしました。ナレーターが伴奏とともに全テキストを観客の言語で話すのです。
 「Akhnaten」は「Satyagraha」同様三幕構成です。第一幕は物々しい行列と威風堂々としたアクナーテンの父アメンホテプ三世の葬儀とアクナーテンの即位式が行われます。第二幕はアクナーテンの新宗教設立そして彼の信条(であり唯一現存する著作)「太陽賛歌」で終わります。第三幕は失脚と最終的転覆をたどります。このオペラは最後にとんだ思惑違いを用意しています。現代エジプトを舞台にした意図せず不快なエピローグが付くのです。退屈そうな表情を浮かべ着飾った服装の観光客がアケト・アテンの廃墟でガイドを受けている場面です。
 音楽的に見て「Akhnaten」は「Satyagraha」を超え、グラスがミニマリスト出身とは思えないほどかけ離れた作品になりました。この曲は木管、金管、多量の打楽器そしてヴァイオリンが無いという変わったオーケストラ編成でした。この弦楽高音部欠如が主題にぴったりの不吉に立ち込める音を作り出していました。全体を通して「Satyagraha」よりも多彩でソロが目立つようオーケストレーションされていました。例えばトランペットはアクナーテンと一体化し彼がステージに出る時は必ず伴奏するのです。またアメンホテプの葬儀で式典音楽が大変な力を呼び起こす第一幕ではエキゾチックで激しいグラス型オーケストラが立ち現れるのです。
 最も特筆すべきなのはアクナーテンのキャラクターかもしれません。グラスはアクナーテンの異常なほとんど空想的ともいえるような肉体的特長を音楽で描き出そうとし、結果カウンターテナーをアクナーテンの声にしました。「成長した大人の唇から出る高く美しい声を聴けばはっとするほど効果的であることが分かります。一声で取り巻きの人々と区別できるのです。」と書いています。
 アクナーテンの信条でありオペアのハイライトでも有る「太陽賛歌」がエクスタティックに歌われる時ほどこのアイデアが上手くいっている所はありません。まばゆいばかりのカウンターテナーはソロ・トランペットと混ざり合いオーケストラ上空を舞うのです、ちょうどガンジーのテナーが器楽アンサンブル上空をちらちらと舞ったように。アクナーテンが賛歌を締めくくるとステージ下のコーラスがヘブライ語で詩篇一〇四をやさしく歌い出します。詩篇はアクナーテンの賛歌に似た所があるので、非常に効果的かつ歴史的に意味深いドラマティックなシーンになりました。
 ミニマルからメインストリームへの道を「Akhnaten」でまた一歩進めました。やかましいオーケストラ伴奏と舞い上がるヴォーカル・リリシズムに新ロマン主義とも言える表現力が加わったのです。低音でぶくぶく鳴る反復ミニマル・アルペジオに対し不自然で苛立たせるようなロマンティシズムでしたが。しかしこの暗く陰気な感情表出はグラス八〇年代作品の多くを表すものになり、またますますシンフォニックかつ伝統的オペラになるグラスの活動にも適したものでした。
 「Akhnaten」初演(一九八四年シュトゥットガルト)は太陽神アーテンのように輝かしいものでしたが、第二回目(ヒューストン・グランド・オペラ、ニューヨークシティ・オペラ、イングリッシュ・ナショナル・オペラ共同事業)はこの一回でアクナーテンの遺跡を葬り去ってしまうものでした。この第二演で若いオーストラリア人監督デヴィッド・フリーマンはファラオに奇天烈かつぞっとさせる両性具有ボディスーツを着せたり、エジプト文明の永久性を伝えようとしてステージ上で常に脱穀機を回し、レンガを積み続けさせました。批評家ティム・ペイジはこう書きました「サタデーナイト・ショウ『コーン・ヘッド、エジプトへ行く』だ。ステージ上に本物の水溜りを作り出し(数秒毎に水が撥ね掛かるので観客は自分が何処にいるか分かるのだ)、ステージ角には麦わらが山と積まれ、登場人物はしばしばそちらに行き麦わらを空中に放り投げるのです。」CBSが一九八七年に「Akhnaten」のアルバムを発売してからやっとこのオペラは復活し始めましたが、今現在でも「Satyagraha」の影響から幾分脱しきれていないようです。
 三部作が完成し、フィリップ・グラスは今や超有名、最も求められている現代の作曲家になりました。一九八二年グラスはCBSマスターワークスと独占レコーディング契約をした歴史上三番目(その前はイゴール・ストラヴィンスキーとアーロン・コープランドでした)の人物になり、新しいセレブとしての地位を確かなものにしました。グラスは自身の巨大多面オペラプロジェクトをより小さくもっとコマーシャルな企画物としてCBSに録音してもらおうと考えていました。グラスのCBSデヴューはより多くの人々へ自己紹介の意味を込めた軽めの器楽アルバム「Glassworks」でした。このアルバムは好評で一九八六年までに十七万五千枚以上を売り上げたのでCBSは「Satyagraha」「Akhnaten」の録音費用捻出に同意しました。(グラスとCBSソニーの結婚は大きなファンファーレで迎えられましたが、CBSを買い取ったソニーと親会社はグラスに興味を失い、関係は不快なものになっていきました。一九九三年にはノンサッチがグラスと契約し、この会社はグラス、ライヒ、ジョン・アダムス、ルイス・アンドリーセンのお互い競い合ってるミニマリスト4人と契約しているという珍しい状況になっています。)
 「Akhnaten」初演の一九八四年頃には、グラスは多方面に異常なスピードで新作を創っていました。例えば八〇年代初期に手掛けていたプロジェクトの数々を取り上げてみましょう。ミュージックシアター作品では、ヴィクトリア朝の写真家エドワード・マイブリッジの先駆的身振り動作研究にインスパイアされたスライド・ショーとダンスのとっぴなハイブリッド劇「The Photographer」(1982)、多国間プロデュースによるロバート・ウィルソン作12時間叙事詩「the CIVIL warS」(1982)のローマ・セクション、作曲家ロバート・モランとコラボレーションしグリム兄弟の特にぞっとするお伽話を改作した「Jupiter Tree」(1984)。ダンス作品にはグラス/振付師ルチンダ・チャイルズ/ミニマル芸術家ソル・レ・ウィット、三人の共作「Dance」(1979)、ジェローム・ロビンズが既存曲でデザインしたバレー「Glass Pieces」(1983)、振付師モリッサ・フェンレイ用にエドガー・アラン・ポーの著作をダンス・シアター化した「A Descent into the Maelstrom」(1985)、Twlya Tharpダンス団用に「In the Upper Room」(1986)。
 グラスは始めて映画界にも進出し、ゴッドフリード・レジオ監督の社会生態叙事詩「Koyanisqaatsi」(1981)、ポール・シュレーダー監督「Mishima」(1984)の作曲をしました。しかし上記全てを合わせたものより、彼が作った三分の曲「The Olympian」の方がもっと多くの聴衆に届いたのではないでしょうか。この曲はオリンピック委員会が委嘱し、1984年夏ロス・オリンピックの開会式と閉会式で演奏されたのです。
 グラスの非ストーリー系ドラマ偏愛を映画のコンテクストに移し得たという点からすると上記の「Koyanisqaatsi」が最高作でしょう。社会福祉指導員兼街頭活動家の元牧師ゴッドフリード・レジオ監督は「Koyanisqaatsi」のタイトルをホピ・インディアン語から取りました。これはだいたい‘バランスを失った世界’と訳せるでしょう。会話や筋立ての無いこの映画は巨大で汚れ無き自然を静かに全景風に移す映像と、都市生活や環境破壊/略奪との対比で描かれていて、映像そのものが語り掛けてくる作品です。純真観念のような音が非常に感嘆すべきものになったのは、かなりの部分グラスのおかげなのです。レジオはグラスに前例無き編集権を与え、グラスが自分の音楽に合わせるためいくつかのシーンをカットするのさえ許可しました。ソロ・バス(タイトルを詠唱する)、コーラス、オーケストラ用に書いたこの曲は暗く陰気且つ厚かましいほどのロマンティックな表現力を持ち、自然の静けさと見境をなくしたテクノロジーの残忍性の両方を捕らえ描いていました。(ちなみにレジオと共作したその後の作品はあまり成功しませんでした。理想化された第三世界の農耕社会と非人間的西洋都市社会を単純に比較した「Powaqqatsi」(1987)、あらゆるエキゾチックな楽器を使いすぎた音楽でした。もう一作は生物の多様性を描いたショート・フィルム「Anima Mundi」(1991)でした。)
 一九八〇年中頃にはグラスのプライベートも安定を見せ始め、作曲意欲はある程度、この新たな幸せから来ていました。ジョアン・アカラティスと結婚し子供(ジュリエットとザッカリー)をもうけましたが七〇年代に二人の関係はぼろぼろになっていました。八〇年には内科医ルバ・バーティクと結婚しましたがこれも上手く行きませんでした。一九八二年にやっとグラスは理想の女性芸術家キャンディ・ジャーニガンに出会い、結婚はせず同棲することにしました。一九八四年にはマンハッタン・イーストヴィレッジに十九世紀のマンションを買いジュリエット、ザッカリー、ジャーニガンと一緒に住み始めました。(残念ながらこの実験は長く続かないのです。一九九一年グラスとジャーニガンはついに結婚しますがその数ヵ月後ジャーニガンは癌で三十九年の生涯を終えてしまうのです。)今日でもイーストヴィレッジは芸術家、知識人、ボヘミアンが好んで集まるトレンディだけどみすぼらしい家賃の安い地区です。しかしまた都市の荒廃が進み社会的騒乱に満ちた危険な地域でもあり、グラスの家は市営避難所とヘルズエンジェル本部近くのとりわけ気味の悪い街角にあります。しかしフェンスに囲われた小さな裏庭はセカンドアヴェニューのヒステリーから逃れて安堵できる場所であり、グラスは家でインタヴューを受ける時が最もくつろいでいます。温厚で形式張らず、警戒心を持たせないよう誠実に、グラスは客人を暖かく迎え和ませます。ライヒと同様、グラスは思考を形成し、長いけれど分かりやすい印象的な話をしながらフルスピードでやり取りします。この落ち着いた人には悩み苦しむ芸術家の面影は有りませんし、きちんとした規則的な創造生活は作曲行為を科学に還元してしまっているようにも見えます。
 自分のアンサンブルでツアーに出ていない時は、ニューヨークかノヴァ・スコシア州ケイプ・ブレトン島にいます。また平日一日の作業時間を方法論的正確さで分けています。「早朝が最も私に適しているので起きてから昼くらいまで作曲し、午後は音楽ビジネス関係に対処します。」グラスはとても速く作曲するので仕事を多く受けがちですが、この超多忙さを維持できる理由は重要度の低い作品の場合には既存の形式をリサイクルして使い本当に新しい物を作り出さないからなのかもしれません。一九八八年にこう認めています「時々本当に急いで作曲しなければならない時があります。以前トータル四十五分の伴奏曲を一週間で作曲し録音したことがあります。スタジオ・ミュージシャンは私より三時間遅れ位で作業を続け、私が一楽章書き上げると彼らはそれを覚えて録音しました。マジで急がなくてはならないのです、おわかりでしょう、でも誰もこう速く作曲することを好みませんが。」
 しかしグラスの最も商業的な努力でさえすぐには実を結びませんでした。一九八五年から二月から十二月までかかった「Songs from Liquid Days」はグラスがこの企画に同意した時に予想していた以上に時間のかかるものでした。ポップ・ソング集をグラスが作曲するというアイデアはCBSが提案した物でグラスの考えでは有りませんでした。CBSはこれで「Satyagraha」の録音費用を補充したかったのです。グラスもまたポップ・ソングにはポップな歌詞が合うと十分分かっていたのでポール・サイモン、スザンヌ・ヴェガ、ローリー・アンダーソン、デヴィッド・バーンに協力を要請しました。曲が完成すると次に数ヶ月かけて各曲に適した歌手を探し、リンダ・ロンシュタット、ザ・ロッチズ、ジャニス・ペンダーヴィス(スティングと共演)、バーナード・ファウラー(ハービー・ハンコック・グループ)、ガンジー役を務めたダグラス・ペリーに決めました。歌詞に合わせたこの歌手のごちゃごちゃした詰め合わせは大部分が芸術ぶって気取っていて、協力者達はまるでインテリ・クラシック作曲家とコラボるというアイデアにビビッてしまってるようでした。
 しかし、CBSの商業主義に魂を売ってしまったとグラスを責めることは誰にも出来ないでしょう。「皆ある程度はそして機会があれば私がヒット・ソングを書く事を望んでいたのではないでしょうか。まぁ、上手くは行きませんでしたが・・・。普段は劇場で仕事をしている私みたいな人がいたとして、突然ヒット曲を書くなんて事は無いでしょう。大半の人はこのアルバムに対しこう反応しました『おいおい、これ変だよ』」」アルバムの内六曲は十分にも及びラジオ局のプレイリストに入るには長すぎたし、演奏はエレキ・ギター、ドラムじゃなくてクロノス・カルテットも加わった拡大フィリップ・グラス・アンサンブルだったのです。その結果このアルバムはポップ・オリエンテッド・アルバムじゃなくクラシック連作歌曲集に近いものになったのです。
 しかし「Songs from Liquid Days」作曲中グラスはある動機、つまり英語で作曲してみたいという思いを内に秘めていました。何年も古代語を扱った後、今グラスは初めての英語による長編オペラ「The Making of the Representative for Planet 8」(1986)に乗り出しました。その上脚本家ドリス・レッシング(「Planet 8〜」は彼女のSF寓話四回シリーズ「Canopus in Argos」の第四話にあたりました)は多量の台本をグラスに提供しました。この脚本を簡素化した後でさえ(六つの草案、二幕から三幕へ増えましたが)、グラスは非常に多くの英語テキストを使う事になるだろうと感じました。
 「Planet 8〜」はグラスの過去のミュージックシアター作品同様に物語劇性は少なく、霊的発想オペラに近いものになりました。グラスはこう言います「プロットはシンプルです。これはレッシングが“宇宙大災害”と呼ぶ氷河期に突入しつつある惑星の話です。基本は死にかけている人種、太陽熱を失いつつある惑星についての話で、・・・。人々は自身の死そして人種滅亡の危機に瀕しているのです。しかしそこには異なった多くの臨終方法があります。」そして実際に第八惑星市民から代表として選ばれた数名は共同体知識の半ユング集積庫的な自由浮遊存在になり、惑星の死を乗り切ろうとします。
 「Planet 8〜」は地球外生物ではなく明らかに地球生命体の寓話ですが、オペラとして成立しそうには思えませんでした。静的で反戯曲的なこの作品は感情に訴える出来事ではなく重苦しい哲学的黙想を包含していたのです。グラスの英語使用は不自然にこわばり、歌唱韻律法はこの作品が口数の多い台本である事をよりハッキリさせました。オーケストラ伴奏上に超多量の台本を会話に直す事にグラスは絶望したのではないでしょうか。
 一九八八年七月「Planet 8〜」は初演されましたが決定的な成功ではありませんでした。しかしこの頃にはもうどんな批評家もグラスの猛烈な出世を止める事が出来なかったのです。一九八八年五月にはエドガー・アラン・ポーの短編に基づいた一幕室内オペラ「The Fall of the House of Usher」が初演され、同年七月には一幕通俗劇「1000 Airplanes on the Roof」がウィーンのシュベフト国際空港第三格納庫で上演されました。しゃべる俳優とアンプ増幅した小アンサンブルのための「1000 Airplanes〜」でグラスは監督デヴューしました。デザイナーのジェローム・サーリン(一九八七年マドンナの「Who's that Girl?」ツアーを監督したことで有名)に空港格納庫を不吉で幻想的街景に変えるよう指示し、この作品のサイ・ファイなテーマにインスパイアされたサーリンはこの慣習的な場所にホログラフィ投射機を使いました。
 グラスは「Planet 8〜」に向けられた批判に憤慨していましたが、英語の使用は困難であると認めました。そして「1000 Airplanes〜」は問題解決というよりは問題逃避でした。「私は英語がミュージック・シアター言語として育ちうる方法を作り出そうとしていました。「Usher〜」では歌、「The Representative〜」では歌としゃべりのミックス、「1000 Airplanes〜」ではしゃべりだけ。しかし私はまだ自分の手法を探しています。」と今までどの作曲家も英語を上手く取り込んでいないとほのめかしながらグラスは言いました。
 一九九八年三月ニューヨークのメトロポリタン・オペラ(二十六週間に新作はたった二つだけという超保守主義施設)はコロンブスのアメリカ大陸発見五百年を記念するオペラをグラスに委嘱したと発表しました。メトロポリタン・オペラの驚くべき決断はグラスが一九八七年に書き上げた自伝「Music by Philip Glass」ではっきりと予想していたものを裏付けたのです。「伝統的オペラ世界はたぶん金切り声を上げながら結局二十世紀へと引きずられていくのです。もちろんその次は二十一世紀へと。」確かに、そんなに長くかからぬうちにそうなったのです。
 一九九二年アメリカではコロンブスの日と言われる十月十二日(五百年祭オペラ「The Voyage」初演予定日)はグラスが七六年に「Einstein〜」を上演して以来初めてのメトロポリタン・オペラへの帰還になる日でした。当時メトロポリタン・オペラは「Einstein〜」用に場所を貸しただけだったので裏口からこっそり入らねばなりませんでした。しかし今、メトロポリタン・オペラは正面扉を大きく開き、新作オペラ委嘱料としては最大と言われる三十二万五千ドルをグラスの「The Voyage」に払ったのです。オペラ「Aida」委嘱料二十二万五千ドル相当(一九九二年のドル計算)をもらったヴェルディでさえ二番目の地位に甘んじなければならないほどでした。
 いつも新プロジェクトを抱え込み過ぎているグラスは「The Voyage」を手掛ける前にやってしまわなければならない企画がたくさん有りました。エロール・モリス監督映画「The Thin Blue Line」(ダラスの警察官殺害に関し間違った信念を持つある人物を描いたノンフィクション)の音楽がありました。新しいオーケストラ標題音楽が二つ「The Canyon」(1988)と「Itaipu」(1989)、後者はパラグアイ/ブラジル国境にある新巨大ダムにインスパイアされた四十分の‘合唱とオーケストラのための交響ポートレート’でした。最重要作品としてはアメリカ・ビートニクス詩人の元祖アレン・ギンズバーグとコラボレーションした「Hydrogen Jukebox」がありました。このタイトルはギンズバーグの「Howl」の一節‘listening to the crack of doom on the hydrogen jukebox’から取られました。
 ギンズバーグとグラスは二人とも実践的チベット仏教徒で二人ともインドに魅了され、またレーガン大統領時代の‘何もしない保守主義’に怒るリベラリストでしたのでこの組み合わせはうってつけでした。 グラスは思い出します「一九八八年の大統領選が終わったすぐ後、ブッシュもデュカキスも現状について何も言ってないように感じられました。でアレンにこう言ったのを覚えています『こいつ等が諸問題について話さないなら我々がするべきだ』。」結局グラスとギンズバーグはギンズバーグの詩から十八編を選んで半脚本みたいなものにまとめました。「まとめた詩は、少なくとも我々の目にはですが、五〇、六〇、七〇年代を概観するアメリカのポートレートになりました。アレンのごく個人的な詩や反戦運動、セックス革命、クスリ、東洋哲学、環境認識といった社会問題に対する彼の考えまで幅広く揃いました。」「1000 Airplanes〜」を終えたばかりのジェローム・サーリンがスライドとフィルム上映を含む視覚環境製作に取り組みました。
 ギンズバーグの長年に渡る熱狂的吟唱がグラスを器楽伴奏付きのしゃべりテキストへと再度向かわせたのです。「Hydrogen Jukebox」(1990)の幾つかは六人のヴォーカル・アンサンブルがソロから六重奏と入れ替わりながら実際に歌います。しかしギンズバーグが彼特有のエクスタティックな雄弁さで朗読する曲群が最もパワフルでした。ここでも、しゃべりテキストの問題は完全に解決したわけではありませんでした。グラスがギンズバーグの詩を音楽に入れた時、彼の熱狂的な言葉は高揚するのではなく堅苦しいリズムに陥ってしまっているようでした。一方ギンズバーグのしゃべり方に合わせると音楽はつまらないただの背景音響になってしまったのでした。
 「Hydrogen Jukebox」にけりがつくとグラスは「The Voyage」に専念しました。脚本家は「1000 Airplanes〜」で共作し、又ブロードウェイのヒット作「M. Butterfly」の著者でもあるデヴィッド・ヘンリー・ホワンでした。「Planet8〜」では八〇ページだった台本が「THe Voyage」では約十五ページで音楽は三時間でした。グラスは「Planet8〜」を思い出しながら茶目っ気ありげに言いました「脚本については多くを学びました。」

 脚本に関して私は‘ミニマリスト’みたいだと感じています。我々が伝えようとしている物は言葉によってのみ成されるのではない、という事がオペラを魅力的にしているのです。視覚要素、音楽セッティング、ドラマティックな演出、全てがストーリーを作り上げるのです。メトロポリタンのような会場で弁証法的展開手法を取るのは大きな間違いではないでしょうか。エモーショナルな効果を持ち幅広い手法で物話が進むような作品を私は望んでいました。

 グラスにはコロンブス物語を順に話していく気が有りませんでした。その代わりコロンブスを人間の抗し難い探検欲というより大きなテーマのシンボルに見立てました。「私はコロンブス歴史物語にしたくなかったのです。コロンブスについて知りたいなら図書館に行けばいいのです。一般的に言ってオペラハウスは現実をテーマにするのに適した場所とはいえません。我々がオペラで出来る事は寓話、小説、詩でもって人間の条件を探求するような場を作り出すことです。」
 人間の終わり無き知識探求欲について科学者が沈思する序章の後、「The Voyage」は場面を氷河期に移します。ここでは探検隊宇宙船が地球に衝突し、原住民は更なる進化へ向かうであろうとほのめかされます。第二幕、神秘的なイザベラ女王と付き合っていたコロンブスは海上にいて悩んでいる。第三幕、時は二〇九二年氷河期時代に衝突した宇宙船の子孫であると証明された人間達が知識を求め宇宙へ旅立ちます。エピローグに死の床に着いたコロンブスが再登場し発見の意味を考えます。最後にベッドは宇宙に向かい上昇していきます。
 明らかにグラスは「The Voyage」をメトロポリタンの比類なき設備(巨大オーケストラ、八十人のコーラス、洗練された施設、三八〇〇席の巨大ホール)に合わせて作ったのです。「戦略を立てました、このオペラでは第一幕の終わりが音楽的ドラマ的にも最大のものでした。私は観客全員に、このオペラの巨大さを認識して欲しかったのです。」と老練なオペラ作曲家の抜け目なさで認めました。
 壮大さの他にグラスは「The Voyage」で新たな領域に踏み込みました。序章からこのオペラは半音(かつ不協和な)ハーモニー・パレットのせいで徐々に暗く立ち込めるトーンになっていきます。単語のない女性合唱が上方に舞い上がり、低音ストリングが音階を高速演奏し、吹き荒れるシベリア風の厳しさが広がっていきます。簡素なメロディ・パターンが反復しながら伸張、収縮するグラスそのままの手法もありましたが、これらは背景にまわって新しいアーチを描くようなリリシズムを伴奏サポートするのです。
 そして「The Voyage」は「Satyagraha」とは違い、クライマックスへ力強く向かうオペラでした。「The Voyage」のアクションは肉体的というより心理的なものでしたが、台本は筋のつながる話でできていて三幕それぞれには壮観なクライマックスが待ち受けているのです。第一幕の終わりには宇宙船指揮官と氷河期人類との対面、第二幕終わりはコロンブスの大陸発見、第三幕には宇宙船に別れの手を振る要人の列です。
 それ以上に予想外だったのが「The Voyage」の表現インパクトでした。例えばコロンブスとイザベラは、今までのグラスには無かった美的情熱を交わすのです。台本を担当したホワンでさえ変化に気付きました。「「The Voyage」には、私は言いませんでしたが、今までのグラスに欠けていた物、つまり情動性がありました、もちろん「Satyagraha」も非常にエモーショナルでしたが。筋のある話をより的確に表現するためにグラスは自分印の手法を更に改良したのだと思います。つまり異なった性格のストーリーが一つに集約しある種の極地に至るように、グラスの手法はある地点へ進んでいく熱情と推進力を持ったのです。」
 英語であれサンスクリット語であれグラスは簡素で飾らないヴォーカル朗唱を好み少しの技巧妙技も好みません。「伝統的名人芸歌唱法はありません。書く気さえしません。こういうのは本質への視点をそらしてしまいます。オペラと言えば声と歌ですが専門的技巧が最も素晴らしいものだとは思いません。」
 だからヴォーカル・メロディが注目されないのも当然なのです。「The Voyage」はワーグナー作品群と同様に、連続的なオーケストラ構造が一番重要でヴォーカル部分は複雑に展開する曲の付随物にすぎないのです。「ヴォーカルは音楽設定から外れていきます。」とグラスは言い、更に驚くような発言をします「多くの場合オーケストラ部分を最初に書きます。そこから声の合う場所を見つけヴォーカル・ラインを対応させるのです。」
 例えば第一幕最後、指揮官のエクスタティックなソロ無単語ヴォーカリーズを作った時ヴォーカル・ラインは本当に舞い上がる感じです。しかし英語を使わざるを得ない時グラスの韻律法は生硬で四角四面なリズムになってしまいます。グラスは「Planet8〜」で初めて長編英語テクストを使ったばかりだったので、いまだに自分の方法を探していると認めました「英語をマスターするのは大変ですし、最初の頃は上手く出来たとは思いません、今はだいぶ良くなったと思いますが。私は英語の口語使用に非常に関心を持っています。」
 皆が期待する「The Voyage」初演時、メトロポリタンを完売にした人々だけでなく、世界中のラジオの前の人々もこの作品を聞きました。ロバート・ウィルソンの超大な視覚効果を無意識にパロった感じの所もありましたが、この作品は制作費二百万ドルをかけたスペクタル劇で、「Akhnaten」以来のグラス最重要オペラになったのです。そして又もし一つのプロジェクトに専心する時間が与えられるならグラスはかつての水準まで達することが出来る事を証明したのです。
 「探索」というテーマは「The Voyage」作曲後も長くグラスの心に残りました。「The Voyage」初演前でしたがグラスは十作目のオペラ「White Raven」に「Einstein〜」の共作者ロバート・ウィルソンと取り掛かりました。ポルトガル政府委嘱ポルトガル語(グラスが話せる言語)使用の五幕劇「White Raven」はウィルソン特有の謎めいた手法を使っていましたがこの作品もまた探索をテーマにしていました。今作の中心人物はアフリカ経由インド海路を作った十五世紀ポルトガル探検家ヴァスコ・ダ・ガマでした。しかしウィルソンは、慣習的なストーリーのある物語を作るような人物ではないので登場人物にミス・ユニヴァース、龍、ジュディ・ガーランド(映画「オズの魔法使い」ドロシー役)とブリキ男を加えました。「世界の他地域を旅行する視覚・聴覚連作ファンタジーに近いものでした。」とグラスはあいまいに笑いながら言いました。
 より深淵な自己探求の旅に出たいという思いからだったのでしょう、グラスは次のプロジェクト(ジャン・コクトーの映画に基づいた音楽劇三部作)に取り掛かりました。グラスはコクトー三大傑作「Orphee」(1949)、「La Belle et la Bete」(1946)、「Les Enfants terribles」(1950)のオリジナル映画台本を取り上げ、順に室内楽オペラ、映画伴奏、バレーを作りました。なぜコクトーなのでしょうか?グラスは多分この偉大なフランス人芸術家に自分を重ねて見ているのです。コクトーとは多方面で成功を収めたため皆から妬まれ又、自分を過小評価されている天才だと思っている人物でした。
 この三部作は「重要な二十世紀芸術家コクトーへのオマージュです。当時詩、劇、小説を書き、絵を描き、映画を作ったコクトーは軽い奴と思われていました。人々は彼をディレッタントだと勘違いしていたのです。今日フランス人は彼を見下すと同時に保護しています。しかし思い出してみると、私が初めてパリに行った一九五四年彼は既に時代遅れと見られていたのです。映画『Orphee』はより若い芸術家に取って代わられる年老いた芸術家の自伝的作品です。で最後にこの老人を殺すのは誰か?詩人仲間なのです。オルフェが聴衆は私を支持していると評論家に言う時、批評家はこう言い返します『でも、聴衆だけだろ』(名台詞ですね)」とグラスは言います。類似性は明らかです。つまりグラスも又作曲家や批評家には貶されていますが聴衆は彼を愛していると。
 コクトー作「Orphee」のシナリオはこのオペラ用台本として一語一句そのまま使われ、十二人の器楽奏者と四人のソロイストを要する小規模作品用に曲を書きました。グラスは「Satyagraha」以来これほど宝石のような完璧さを持った曲を作っていませんでしたし、個人的なものとプロ的なものが混ざり合うことに何か理由があるのだろうかと人々は思いました。グラスはコクトーと自分を同一視し、またオルフェウス(死んだ妻を地界から生界へ連れ戻そうとする)にも自分を重ねていたのでしょう。グラスの妻キャンディ・ジャニガンは「Orphee」作曲の前年癌で死に、人々はグラスの悲しみはオルフェウスの悲しみと同じだろうと思いました。理由が何であれ「Orphee」(1992)には透明なテクスチャ、精妙な楽器音色、そして最も重要な自由で表現力溢れた新鮮なヴォーカル書法がありました。グラスのコンセプトにはコクトーからそしてグルックのオペラ「Orfeo ed Euridice」(1972)からも多大にインスパイアされたであろう控え目の威厳と慎みが有りました。
 三部作の二番目は精妙さではなく技術力を要する「La belle et la Bete」(1993)でした。グラスはこの音楽から台詞と、元々ジョージ・オーリックが付けていた音楽を取り去り、自身の新曲を書きました。映画の登場人物は口をパクパクさせるだけですがヴォーカリストと楽器奏者はスクリーンの後ろに立ちシナリオを歌います。生演奏と映画のシンクロは難しかった(それゆえ予想外の面白い結果も生まれました)のですが、未来の多様なハイブリッド・アートの可能性を示してもいたのです。「サイレント映画に生演奏を付ける試みは今までも有りましたが、私の知る限り、映画をオペラ化した人はいないと思います。」とグラスは言います。
 「La belle et la Bete」はグラスの十二番目のオペラになり、もしもう一作品創ればワーグナーと並ぶところでした。しかしグラスは交響曲に新たな(そして遅ればせながら)興味を持ち始めたのでそれにしたがいオペラ製作は遅れていきました。
 一九八七年になりクリーブランド・オーケストラ委嘱の交響詩「The Light」、ポール・ズコフスキーのヴァイオリン協奏曲と、グラスは交響曲を書き始め続けざまに「The Canion」(1988)、「Concert Grosso」(1992)、「‘Low’Symphony」(1992)、「Symphony No.2」(1994)を作曲しました。しかし多作のグラスはこう警句を発しました「これは私の交響的アウトプットの序章に過ぎません。」
 上記作品中では「‘Low’ Symphony」が最も成功しました。この作品にはクラシック音楽史上ユニークとも言える作曲創生がありました。グラスはデヴィッド・ボウイ、ブライアン・イーノが共作した先駆的なアルバム『Low』からインスト三曲を取り出し交響曲のテーマ素材として使いました。一九七一年グラスがロンドンに来たときボウイとイーノは初めて彼の音楽を聴き『Low』はグラス風ミニマルに大きく影響を受けたアルバムになりました。そして今二十年を経てグラスはお返ししたのです。グラスは借りて来たテーマを自分流の反復と変容に当てはめたのですが、この作品が成功を収めた理由は、グラスが素材を純粋に交響風に発展させ徐々に熱情的クライマックスへそしてはっきりとしたテーマへと展開させたことに有るのです。深いメランコリーと哀愁を帯びた痛々しいまでのリリシズム、例えて言うならばポストロマン派英国作曲家ラルフ・ヴォーン・ウィリアムスあるいはアメリカ交響曲家アーロン・コープランドにも比肩しうる物でした。
 次作「Symphony No2」が成功していれば良かったのですが。しかしそれも又グラス近作の苦境を浮かび上がらせるだけだったかもしれません。一九七〇年代、グルグル回る耳障りで引き締まったかっこいいミニマル・パターンが反復する時、これは全クラシック音楽界の自覚を打ち負かすような衝撃を持っていました。一九八〇年代この手法がオペラに使用されるようになると、誇大膨張管弦化されていない時が一番効果的でした。だから「Satyagraha」は「The Voyage」より成功したのです。結局のところオペラという物はヴォーカル・メロディが反復パターンをただの伴奏機能しか持たない物にしてしまうのです。オーケストラ曲の場合、グラスの下降音階、ゴロゴロするアルペジオ、凡庸なシンコーペイションは前面に出ています。しかし壮大なオーケストラ衣装に着替える時にはシンプルな素材と、クライマックスのあるあからさまにロマンティックな熱情表現との間に見紛う事なき明白な不釣合いが現れてしまうのです。
 全三楽章四十分の「Symphony No2」は非常に慣習的で平凡でさえあり又、グラスが昔は避けていたヨーロッパ保守系の伝統を包み込んだ作品でした。グラスは最早新しい物や挑発的な物を捜し求める人々に曲を書いていないのです。その代わりグラスは自分の功績でもあり又自分が作り上げてきたメインストリームの更なる人々−普通のスタイルを好みそのスタイルに失望しない多くの献身的な聴衆−を対象にしているのです。現代の作曲家にとっては妬ましく且つリスクを負うことが無い地位なのです。こういう無意味なほど凡庸な情況であったなら「Music in Twelve Parts」も「Einstein〜」も生まれ得なかったのですが。
 さてフィリップ・グラスを作り上げているものは何でしょうか?一九九三年批評家ジョン・ロックウェルはこう書いて問題を上手くフレーム・アップしました「グラスはただ衰えたのか、面白い方へ衰退したのか、魂を売ってしまったのか、気まぐれなのか、それとも新しく前途有望な音楽語法を暗中模索している最中なのか、それが問題だ。」ロックウェルは自分の問いに答えませんでしたがこう結論しました、グラスの「拡大反復の力強さへの信念は打ち倒されなければならないのです、メインストリームの聴衆にアピールするためには。」
 スティーブ・ライヒは一九八〇年代に創った慣習的オーケストラ作品から自らを引き離し、一九九〇年代には初期作品に見られた革新精神を取り戻しました。当然「Different Trains」や「The Cave」に分かりやすさや快適さは有りません。一方グラスはもう革新にあまり興味を持っていないようです。一九八〇年初め以来グラスは新しくショッキングな曲を作ることをやめ、その報酬として熱意ある多くの聴衆を得たのです。この報酬はグラスのスタイルと同じく気持ち良いものでした。グラスがトンガッテいた七〇年代のスタイルとは全然別物になったのです。
 しかしたぶんこれはグラスが何年も意図してきたことなのでしょう。複雑な批評的分析よりも本人のコメントの方が現在の情況を一段と踏み込んで説明しているようです、「実験的作曲家としてスタートしましたが今や私はとてもポピュラーな作曲家です。」と一九八七年にグラスは言いました。そして一九八八年にグラスは九〇年代に向けての指針をはっきり示しました「私は作曲人生を通して自分のスタイルを変えていく権利を保持します。全ての芸術家がそうしているように。こういうのには誤解が付いて回りますが。私は“難解な”芸術家のままでいたくないのです。私は常により多くの聴衆を求めていましたし、実際私はそれを成し遂げてきたのです。」

第六章アダムス、モンク、ポスト・ミニマリズム
 ジョン・アダムスはニューイングランドの田舎にある家のリビングで座ってレコードを聞いていたのを最も古い記憶の一つとして覚えています。「LPの発明が三歳くらいだったと思います。父がターンテーブルとアルバム二枚持ち帰って来たのをはっきり覚えています。レオポルド・ストコフスキー指揮『1812序曲』と道化師ボーゾー指揮『ジョン・フィリップ・ソーサのサーカス・マーチ』で、間もなく私は母の棒針を持って蓄音機に向かい指揮するようになりました。」と思い出しながら言う。アダムスはこの回顧をさえぎって「ベニー・グッドマンとモーツァルトが家族のような環境で育ったのです」と強く言い加えました。
 アダムスはアメリカ系とヨーロッパ系、古い物と新しい物、高級芸術と低級ポップなどあらゆる音楽に開放的です。これが先輩ミニマル陣とアダムス・ミニマルの大きな違いなのです。ミニマリズムの緊縮した肩をロマン主義の情熱でマッサージするようなアダムスの音楽を言い表す為に「ポスト・ミニマリズム」と言う語が作られました。マーラー(1860〜1911)やシベリウス(1865-1957)のような十九世紀末ポスト・ロマン主義作曲家が十九世紀ロマン主義を取り入れつつ二十世紀スタイルを付け加えたように、ライヒやグラスより一世代離れたジョン・アダムスはマーラーやシベリウス同様、ミニマル・ボキャブラリーを受け継ぎ、新しい表現力とメチャ楽しい多様なスタイル並置によって豊かな音楽を作り出しました。「現代音楽作曲家であるには、肩肘張らずゆとりを持ってあらゆる音楽を体験できなくてはなりません。あと自分自身を笑える事ですね。」と言う。
 めったに笑ったりしない音楽評論家、特に保守的ジャーナリストがアダムスを物笑いの種にしているのを彼は知っています。非人間的、厳格で純粋な初期ミニマリズムを取り出し、二十世紀後期の堆積する混合アメリカ文化でもってミニマリズムを不純なものにしたのが彼の罪なのです。この不純化をアメリカの評論家エドワード・ロススタインは「ミニマリズムの破壊」と評しますが実際アダムスの音楽にとってミニマリズムは数ある表現手段の一つにに過ぎないのです。
 アダムスの不敬な折衷主義を理解するには少年時代まで視野に入れる必要があるのです。アダムスは一九四七年二月十五日マサチューセッツ州ウォセスターで音楽化の両親の下に生まれました。

 父はジャズのサックス奏者でした。それがきっかけで母親に会うことになったのです。私の祖父(母にとっての継父)はニュー・ハンプシャー州ウィニーピソーキー湖に「アーウィンのウィニーピソーキー・ガーデンズ」というダンスホールを所有していました。湖に杭を打ちゴージャスな硬材のダンスフロアーを作ったのです。信じられないくらいロマンティックでした。三〇〜四〇年代はあらゆるビッグ・バンドが来て夏中ここで演奏しました。父はビッグバンドをサポートするB級バンドのクラリネット/サックス奏者としてやって来ました。そこに別のバンドで歌ってた母がいたのです。二人は出会い駆け落ちしました。ですから私が幼かった頃、両親の好きだったクラシックとジャズが最初の音楽体験でした。

 アダムスがまだ子供だった時、一家はボストン近くのウォセスターからウッドストック、ヴァーモント、最後にニューハンプシャー州イーストコンコードの孤立した田舎へ引っ越しました。人口三百人で街広場や尖塔教会がある典型的ニューイングランドの村で、ここにアダムスは大学入学まで住んでいました。
 イーストコンコードの大きさとは逆に多くの音楽機会がアダムスに与えられました。八歳で父親からクラリネットを教わり十一歳で作曲を始めました。いずれ作る交響曲の作品番号を考えながら近所の雪に覆われた松林を散策したことでしょう。間もなくコンコードの父が在籍しているマーチング・バンドに参加し十代初めには第一クラリネットに昇進しました。
 十代の頃、ニューハンプシャー州立精神病院の支援しているコミュニティ・オーケストラはアダムスのクラリネット奏者、作曲家、指揮者としての能力を高くかいました。大人ばかりのオケの中、アダムスはヤングスターで十三歳の時に書いた弦楽オケの為の三楽章組曲を指揮する機会を与えられました。「楽団員とコンコードの大人達は私を神童と思い、こんな若い子がクラリネットを吹いて作曲し、指揮も出来るなんてと興奮していたと思います。」
 オーケストラはアダムスに音楽レッスンをし、音楽には深遠な表現のパワーが有ることを示して見せました。「我々が最も平凡な曲を演奏する時、人々が涙を流すのを私は見るのです。私の音楽はいつもこんな感じです。だから多くの人々が恐れるのです。私の音楽はあまりにも情緒的過ぎるのです。」
 またあるコンサートでアダムスは最も上品な表面の裏に狂気が潜み得る事を知りました。このオケにはワイルド・ジョーカーと呼ばれる精神病患者がいたのです。

 シューベルトの未完成交響曲やメリーゴーランド曲集なんかを演奏してる時、患者の一人(特に私の後ろでクラリネットを吹いてたヤツ)が突然ブッ飛んでしまうんです。止まんないの。「yadayadayadayada」と意味不明にモゴモゴ言い出したりクラリネットをメチャ速く吹いたりして。でも誰も驚かないし拘束服に入れたりもしません。そこには優しくて思いやりのあるニューイングランドの人々がいて、誰かが突然叫び出すような事態が起こるかもと思いながら演奏を続けるのです。とても意味深い物の中に全くオカシナ事が起こりうるという点でこれは私にとって初めての社会活動的音楽体験でした。

 高校卒業する頃にはアダムスのアメリカ・ポップカルチャーへの情熱、音楽のエモーショナルな力、不慮の出来事を好む事などが将来の作曲人生への肥やしになっていました。更に磨きをかける為ハーバード大学へ旅立つ時が来たのです。
 十代の頃既にボストン交響楽団のフリックス・ヴィスクグリアにクラリネットを習いにボストンへは来ていました。今や彼はレナード・バーンスタイン、ウォルター・ピストン、エリオット・カーターといった作曲家を推し上げて有名にした名門稜堡ハーバード大学奨学生になったのです。大学を出てない両親にとって、一流大学へ行く息子はとても輝いて見えました。
 指揮とクラリネットにエネルギーを注ぐつもりでハーバード大学に行きました。最初アダムスはフリーのクラリネット奏者としてボストン響に参加(シェーンベルクのオペラ『モーゼとアーロン』のアメリカ初演が最高の思い出です)、ピストン『クラリネット協奏曲』初演ではハーバード・ラドクリフ響のソロイストを務めました。指揮の方が適しているようだったので、ハーバード大のダイニング・ホールで学生によるモーツァルト『フィガロの結婚』を指揮しました。バーンスタインの非公式スカウト係の一人がアダムスに目を付け、バーンスタインはアダムスを指揮研究員としてボストン響の夏期ホームグラウンドであるタングルウッドへ招待しました。
 こんな招待を断れる人はいないでしょう。しかしその時アダムスはビーズを巻いたヒッピーで一九六七年の夏中自己探求と薬物実験にドップリ浸り、指揮者ではなく作曲家になろうと決めていました。「まず最初にやったデカイ事は室内オケとソプラノの為の曲作りでした。歌はハーバードの友人が書いたサイケ詩を元にしました。ジム・モリソンのドアーズとサージェント・ペパーズを足して二で割った感じ。」と思い出し笑いしながら言います。ロックどっぷりのアダムスはクリームにインタヴューもし、記事が「The Harvard Crimson」誌に載りました。「聴いてた物の半分以上はロックでした。作品に凄い統一感のあるもの、特にクリーム『Disraeli Gears』、ビートルズ『Abbey Road』、ピンク・フロイド『Dark Side Of The Moon』、マーヴィン・ゲイ『What's Going On』などに影響を受けました。」
 言うまでもありませんがこれらの音楽はハーバード音楽部が勧める物ではありません。シェーンベルク一派の十二音技法が支配的だったのです。「深い認知不協時代でした。」とアダムスは苦々しげに言います。

 教授達はポップカルチャーやアメリカ文化で何が起こってるか全く分かっていなかった。私はジャズとロックを好きになった後に音楽部に行って陰気臭い大きな部屋でウェーベルンの音列を数える、全く酷い時間です。で、また部屋に戻ってハイになってセシル・テイラー、ジョン・コルトレーン、ローリング・ストーンズを聞く。ロックに多くのフィーリングがあるなんて私には皮肉でした。ロックはデュオニソス(酒の神)で我々の精神を表し、歓楽社会を表していました。一方私が習っていた現代音楽は感情を押し殺し、制限し、削ぎ落とし、複雑にしました。六七年以来私はこの二重生活を送っていたし、自分に正直でない事もわかっていました。

 大学の最終学期に徴兵通知が届きました。アダムスはベトナムで戦う代わりにいやいやながらハーバードの音楽授業に避難場所を求めました。作曲教授レオン・キルヒュナーを高く評価していましたが授業は「いや〜な雰囲気でした」とアダムスは評しました。七一年の博士号を取る頃には変化を求めうずうずしていました。
 変化は思わぬ方向から訪れました。両親が卒業プレゼントにジョン・ケージ著『サイレンス』をあげたのです。「これは精神の起爆剤でした。」ケージは答えを出したりしません。しかし、どんな音が音楽を作るのかというハーバードでは提起されなかった刺激的な問を発するのです。その時、教え込まれた貧困なモダニズムとは別の道があるかもしれないとアダムスは感じました。一世代前のライヒと同様に別の道を探す自由がサン・フランシスコにあるかもと思いました。
 七一年夏、荷物をワーゲンビートルに積んでサンフランシスコに向かいました。(どうやら北カルフォルニアのレイドバックした生活習慣がこの内省的なニューイングランド人に合っていたようです。アダムスは現在までベイエリアを離れたことがありません。)初め彼の人生は前途多難に見えました。一年以上何も作曲せず、生活費を稼ぐ為に台湾からシアーズ・デパートに送られてきたバミューダ・パンツの荷を解く仕事を河岸倉庫でしていました。
 荒れた状況の中で突然「仕事が手のひらに落ちてきました。」当時財政は苦しいけれど芸術に冒険的なサンフランシスコ音楽学校が若く冒険心ある才能を探していて、その条件に合ったのがアダムスでした。七二〜八二年の十年間、アダムスの音楽人生は新音楽学科監督を務めたこの大学院中心に回っていました。オケと新音楽アンサンブルを指揮し、分析/オーケストレーション/作曲を教えました。そしてまた「好意的な生徒を楽式保守主義や音楽形式主義の塞をぶち壊す前衛十字軍に引き入れました。」アダムスにとってこの音楽院は咎【ルビ(とが)】を受けずに実験できる巨大な音楽研究所になったのです。結果としてアダムスは自分の進む道を見つけたのです。
 ラ・モンテ・ヤングが十年以上前にした様に、アダムスはまず非慣習的音源を使ったケージ系音楽の探索に向かいました。無秩序不特定アンサンブル用にトイレのブランドから名を取った「American Standards」(1973)を作曲しました。これはマーチ、賛歌、バラードといったアメリカの“スタンダード”からそのスタンダードらしさを抜いた作品でした。アダムスのもっと斬新な折衷的無頓着ぶりは「Lo-Fi」(1975)に現われています。「音の出る物で音楽を作ろうとグッドウィル店に行ってフランク・シナトラの古い七十五回転レコード、おんぼろレコードプレーヤー、車のダッシュボードから引きずり出したぶっ壊れたスピーカーを買いました。それでゴールデンゲートパークの大講堂に巨大音空間を作り出しました。この演奏の後に予想外の申し出を受けました。翌年入学してくる生徒から作曲の授業をして下さいと言われたのです。」
 アダムスは次にエレクトロニクスに向かい、完全な回路図を書いてシンセサイザーを自作するまでになりました。エレクトロニクスに三年はまった後、アダムスは「全音改変」(と名付けた)を体感しました。調性のパワーこそが自然の真正な力なのだとはっきり認識したのです。「共鳴の力強さをエレクトロニクスから学びました。私達は大学で、ニーチェが『神は死んだ』と言ったのと同時期位に調性も死んだと教わりました。私はそう信じました。若い時に教条的に決めてしまった事を元に戻すにはより大きな体験が必要になります。私の場合それはエレクトロニクスでした。」
 ケージ流混沌、エレクトロ・コラージュの五年が過ぎアダムスは行き詰まりを感じていました。彼の新たな調性信念をどうしていったら良いのか?どんな音楽言語が使えるだろうか?幸いそこには調性、協和、アメリカ・ポップカルチャーのパルス・リズムがあってしかもトンガッテル新しいスタイルが一つありました。そうミニマリズムです。アダムスはミニマリズムが気に入り人生は良い方向へ変わりました。
 アダムスはハーバード大に戻った時テリー・ライリー「In C」を既に聞いていました。ライヒ&ミュージシャンが「Drumming」の演奏でサンフランシスコに来た七四年、アダムスはミニマリストに転向しました。翌年フィリップ・グラスのコンサートを聞き、ミニマリズムが自分の創造的ジレンマを解決してくれるかもしれないと思い始めたのです。「デカクてひどいテープ・コラージュを作ったり、偶然性を取り入れて遊んだりする事にどんなに固執していたかとても一言では言い切れません。楽しくはありましたが、心の中では何か違うと感じていました。このとても冷めていた時期から脱出できるかもと思うと興奮しました。」
 アダムスはライヒの「Drumming」「Music For Mallet Instruments, Voices and Organ」(アダムスは七七年に指揮した)がハッキリした調性と定続パルスの分かりやすいコンビネーションを持つ一方で構造的厳格さも持ち合わせている事にとても感動しました。今でもミニマリズムを「過去三十年で唯一真に面白い発展を遂げた重要な音楽形態。人々が否定すればするだけ、音楽的には革命なのです」と言っています。
 間もなくアダムスがこの革命をライヒやグラスとは違った方向に持っていこうとしていることが明らかになります。より西洋風に、アダムスはミニマル手法をもっと情緒的でクライマックスがあり展開のある表現手段にしました。彼はライヒ言う所の「工程を設定し流し込めば後は自動的に動き出す」ような初期ミニマル作品の非人間的純粋機械工程を拒否します。落ち着かない性格のアダムスは音楽工程の連鎖を断ち切り、より急速な変化を要求し不純雑多な手法で多いに楽しんでいます。「私は作品の中に人生の悲しい側面を取り入れようとしています。というのはミニマリズムが必ずしも達成しているとは言えないからです。」
 この人生の悲しさが最初のミニマル作品ピアノ曲「Phrygian Gate」(1977-8)と弦楽七重奏曲「Shaker Loops」(1978)によく現われています。両曲とも約三十分、引き継いだミニマル語彙を使って彼のやりたかった事が見て取れます。「Phrygian Gate」は七つの調を移動し、各調ごとに(二つの古代ギリシャ旋法)リディア旋法(明るい、官能、協和)とフリギア旋法(快活、不安定、勇ましさ)の情緒的相違を際立たせます。「Phrygian Gate」は八分音符のパルスがずっと続きますが、そのハーモニーの多様性、情熱的クライマックスはミニマリズムを追い越したと言えます。
 「Shaker Loops」にはアダムスらしさがより多く現われてます。「Shaker」は震えたり揺れたりする恍惚的儀式をする十八世紀ニューイングランドの原理主義者セクトから取られ、「loops」は短いテープループみたいにモジュールが反復連結されて書かれた譜面を指しています。しかしアダムスはライヒ風の極合理的かつスローな展開工程には通さず、せわしないリズムから静止した音のプールへと急激に変化させるのです。そして第三楽章のチェロが長く輝く情緒的メロディを弾く時、アダムス印のミニマルは二十世紀後期の作曲家に手に入る全表現手段を包み込んでいる事がハッキリするのです。
 ライヒとグラス(のミニマリズムは)アダムスにミニマルを成長させる機会を与えたことになるでしょう。そしてまた一世代後のアダムスは彼らの持っていない方法でミニマルを発展させたと言えます。「ミニマリズムは西洋芸術音楽にとって素晴らしいショックだったと思います」と九二年に言ってます。

 冷徹厳格なシリアス音楽の上に春の新鮮な水をバケツでぶちまけたみたいでした。これが無かったら、どれだけ酷くこわばった音楽風景が広がっていたか想像も出来ません。しかし表現手段としてのミニマル音楽は絶対に進化し複雑化しなくてはならないとも考えていました。芸術には避けて通れない道なのです。モンテヴェルディ、モーツァルト、ヘミングウェイ、ル・コルビジェ、彼らは皆簡素性で革命を起こしました。静かな一つの革命。しかしその後すぐ、更に複雑な第二世代が続くものなのです。

 ミニマリズムのエレガントな簡素性にもっと複雑性を持ち込む男とアダムスが自認しているからでなく、その複雑性の導入方法が議論を呼んでいるのです。あらゆる音楽に囲まれ育ったアダムスは簡素厳格なミニマルと感動的ポスト・ロマン主義、ジャズ・ビッグバンドの郷愁メロディとロックのモーター回転パルス・リズムなど全ての音楽を自分の音楽創造の肥やしとみなしています。影響受けた物を厳格ミニマル工程には通さず全てを真心込めて包み込むのです。その結果、爆発する情緒と乖離したスタイルに満ちた今までに無い音楽が生まれたのです。だから禁欲自己捨身的純粋ミニマルが好きな人から見ればアダムスは裏切り者なのです。
 アダムスはライヒとグラスの影響を認め両者の語法に親しみを持っていますが、この二人を超えなくてはならないと感じています。

 ライヒ/グラスと私の違いは、私がモダニストではないという事です。私は音楽の全歴史を包み込むし、彼らのような洗練されたシステマティックな言語は持っていません。私は直感的なバランス感覚をもっと頼りにしています。直観した構造が正しいかどうか心配するのは止めました。私の言える事は、十九世紀の作曲家はほとんど直観レベルで作曲していたという事です。

 アダムスには、ライヒやグラスなどの作曲家は典型的モダニストの経歴を持っているように見えます。敵である十二音列主義者と同様にシステマティックな作曲方法を求め、オリジナリティつまり前衛である事をスローガンにしています。しかしアダムスにとってこの究極のオリジナリティ探求は最早問題ではありません。「私の音楽は全てデジャ・ヴュの感じです。前衛主義、前衛全体は自滅してしまっています。今世紀末が近づき、未来の先陣を切ってバリケードに突っ込むような必要性は無いのです。」その代わりアダムスは立ち位置をマーラー、バッハ、ブラームスになぞらえ「時代の終わりにいて、過去三十〜五十年に起こった全ての革命を取り入れるのです。」と言います。
 一九七八年アダムスはエド・デ・ワートが指揮するサンフランシスコ交響楽団のニュー・ミュージック音楽監督になり、八二〜八五年は座付き作曲家でした。この期間にSFオケはアダムスにオケ曲を二つ委嘱しました。一曲目は約二七五人を要する大コーラスとオケの為の三楽章作品「Harmonium」(1981)。二曲目は約四〇分の三楽章オケ曲「Harmonielehre」(1985)でした。
 両曲とも数小節聞いただけでアダムスと分かるくらいミニマリズムとポスト・ロマン主義が素晴らしく融合していました。ジョン・ダンとエミリー・ディキンソンのテキストを使った「Harmonium」はキチガッたような緊張感が凄い、雷鳴のようなクライマックスに満ちています。パルス・リズムと反復ミニマル・パターンは後ろにまわり、リリシズムが前面に出てきて初めてアダムスの(主観)パーソナリティを明らかにするのです。
 もっと驚嘆すべきなのは「Harmonielehre」です。このタイトルはアーノルド・シェーンベルクが調性和声について書いた論文(一九一一年)から取られました。「Harmonielehre」はシェーンベルクの本だけでなく世紀末ウィーン表現主義の興奮混乱にも言及していました。一、三楽章にはミニマル・パルス・リズムがありましたが真中のニ楽章(ワーグナー『パルシファル』に登場する聖杯を求める王様にちなんだ「The Anfortas Wound」)は長い苦悶の叫びやうっすらとした半音階叙情があって過去作品のどれよりもマーラー後期やシェーンベルク初期を思い起こさせました。二年間のつらいスランプの後に「Harmonielehre」はアダムスの心にわだかまっていた感情を開放したのです。言うならば爆発的、時にヒステリックな力のミニマリズムと言えましょうか。
 しかしアダムスは「Harmonielehre」のようなカタルシスを持つ譜面をいつも作ろうとしてるのではありません。芸術そして人生において、彼は沈思探求的性格とバランスを取るような厚かましく鼻持ちならない性格も持ち合わせています。この不敬な態度は敵も味方も不快にするよう計算されたような作品群に表れています。二つの偉大な作品「Harmonium」と「Harmonielehre」の間に、今までで最も奇妙かつパロディ風で通俗的な作品「Grand Pianola Music」(1981-2)がありました。「暗く内省的シリアス作品。これまでの作曲で得た友達全てを無くす、皮肉屋でけばけばしい詐欺師的ジョーカー・カードでした。この両極性を意識して操作してるのではないのです。明/暗、晴れやか/いらつき、まじめ/いいかげん。ある種、精神の均衡を保っているようなものです。」と八九年に書いています。
 「American Standard」「Lo-Fi」、「The Chairman Dances」(1985)「Fearful Symmetries」(1988)と同様、「Grand Pianola Music」には確かに詐欺師が誕生したと言えましょう。室内オケ、無詩ソプラノ、二台のピアノ用「Grand Pianola Music」は議論を巻き起こし、特に非難を浴びたのは最も単調なポップミュージックのコード進行(トニック―ドミナント―トニック)による反復ミニマル・パターンが小波立つ第二楽章「On the Great Divide」でした。まぁこれも悪くないと、アダムスは平凡なメロディを徐々にひねくれて行く大きなクライマックスへ向かわせるのです。曲の間中、ドンドンするマーチ、ヒーロー風ベートーベンにピアノ・アルペジオ、恍惚的ゴスペルハーモニーといった音楽クリシェがバラバラに狂気乱舞するのです。「この曲を作ってる時、ぶつかり合うピアノ、クークー歌う女声、ヴァルハラ大神殿のような金管、バンバン打つバスドラム、ゴスペルの三和音、ナイアガラの瀧のようにフラットして行く調性、全てが同居することになりました。」と書いています。若き日の音楽体験が大きなポットに全て入れられ、煮立つのを待ってるような音楽でした。
 アダムスはイってしまったのか?いいえ、全然。「Grand Pianola Music」はアダムスが若き日に愛したアメリカ・ポップカルチャーを復活させる道だったのです。繊細さは欠けるけど青年期のやんちゃぶりに満ちてます。八七年彼は「私が何者であるかを音楽で表現した今までで最も完全な作品でした。卑俗性全開、アメリカ音楽経験いっぱいでした。ジョン・アダムスという名前でいったいどんな他の音楽が書けましょうか?」
 アダムスの音楽には現代音楽から消えて久しいもう一つの物が満ちています。つまりユーモアです。「現代音楽が最もウンザリするのは酷く陰気で生真面目な性質があるからです。音楽は他のどんな芸術より上手くユーモアを伝える事が出来ます。でもそれをやれば自らパラナサス山頂から飛び降りるハメになりますよ。」
 落ちた溝からパラナサス山を見上げながら次はどうしようかとアダムスは考えていました。スタンダードなオペラのファンじゃないアダムスにすれば、初めて作った現代物オペラで間もなく世界的名声を得ることになるなんて想像もできなかったでしょう。彼の折衷ポスト・ミニマル手法が現実の生き生きとしたドラマを上演するミュージック・シアターに安息の地を見つけることになるのです。
 一九八三年ニューハンプシャーの両親を訪ねた時ハーバード大出たての若き鬼才ピーター・セラーズに出会いました。後に八〇年代後期セラーズはモーツァルトの有名なオペラ三作品に現代アメリカの都会的荒廃と社会的動揺を取り入れた演出で悪評を高めるのですが。しかしアダムスに会った時は、一九七二年の歴史的ニクソン・毛沢東会談に基づいたオペラを作るという新奇なアイデアを持っていました。これが後に「Nixon in China」になるのです。
 アダムスは驚き「ニクソンみたいな有名なキャラに歌わせるなんて馬鹿馬鹿しいと思いました。」また現代事象をテーマにしたオペラに懐疑的で「当時私はユング(注:ユングは精神病者の幻覚や妄想が古来からある神話、伝説、昔話などと共通の基本的なパターンの上に成り立っていることを認め、 〈元型〉、という考えを提唱したhttp://www.d4.dion.ne.jp/~yanag/kora7.htmより)に非常に没頭していたのでオペラの題材ならクラシックの古典的タイプか神話でした。「Nixon in China」がまさしくそれだと気付いてなかったのです。つまりこの現代で有名な政治家こそ神話であり又古典的でもあるということに。」
 「Nixon in China」が素晴らしいアイデアだと理解し又、現代の聴衆に意味のあるオペラを作り得るかもしれないと思うまでに一年かかりました。「オペラはこうでなくちゃ。映画は結局いつも同じですし、今世紀にオペラは全く時代遅れになりました。我々の経験に通ずるものがないのです。シェークスピアやギリシャ神話に基づいたオペラはもう必要ないのです。」と一九八七年に言っています。そしてもし、ほこりにまみれた過去の神話ではなく現在の神話的人物を題材にするのならば、安心しきった聴衆をショックで震え上がらせられるでしょう。「ヒトラー、ドナルド・ダック、マリリン・モンローに言及すれば我々の精神スイッチは押されまくりです。」
 その点リチャード・ニクソンはどうでしょう。実際ニクソンのようなキャラは大勢の心スイッチを押したので「Nixon in China」は面目を失った前大統領とナイーブな大統領婦人をからかい皮肉った作品だと思われていました。しかしアダムス、セラーズ、脚本のアリス・グッドマン(セラーズのハーバード時代の級友)はこの作品を政治的嫌み混じりの批評作品にしないよう強く意識しました。そしてエレガントな対句詩を使ったヒロイック且つ同情的なオペラを作り上げました。「これは個人的問題と歴史事象の糸に絡め取られた特別な人間に関するオペラです。私たちはこういうオペラを神話的と呼んできたのです。確かに沢山の神話的要素が入っています。独善性、偉大さ、歴史的必然性、ニクソン、これらは全て非常に古いアメリカ神話なのです。そして毛沢東は数千年の神話を封印する事で自分の神話を作ったのです。」
 ヒューストン・グランド・オペラ、ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック、ワシントンDCケネディ・センター(まさにピッタリ)が八万ドルでアダムスに委嘱した「Nixon in China」は完成までに二年かかりました。八七年十月の初演、批評家マイケル・スタインバーグは誇張することなく「最も熱く待ち望まれたアメリカのオペラ」と評しました。
 幸運な事に「Nixon in China」は内容を伴った作品でしたので異常に盛り上がる前評判を耐え抜きました。グラス風反復音階全開の陰気な序章の後、大統領機が北京空港に着陸します。ニクソンとパット婦人がニュース映像と同じ服装で出てきます。二人はタラップを降り周恩来首相と握手する(一つのTV用シーンそのままに)。このシーンは事実通りだったので初演の夜、観客は楽しみつつ息を呑むのが聞こえました。ニクソンは息苦しくどもりながら、TVの影響力を、本が並ぶ書斎で毛との会談を、手の込んだ晩餐会を歌います。まるで新聞の社会面からオペラの舞台に飛び移ったかのようです。
 ヘンリー・キッシンジャーの冷淡な描写や毛夫人の華やかなアリアといった痛烈な皮肉があるにせよ、オペラ「Nixon in China」は想像以上に細やかな作品でした。最終幕では主要人物がそれぞれ小さなベッドに横たわり人生で成し遂げた事を思い巡らすのです。彼らのためにアダムスは今までで最も内省的かつ心に響く感動的な曲を作りました。
 オーケストラ伴奏部にはグラス風反復アルペジオといったミニマル要素がはっきり多用されています。(実際のところ「Nixon in China」の強い物語性は、例えば「Satyagraha」といったグラスの静止的舞台とは少しの共通性もありませんが一部のグラス・ファンは「Nixon in China」をグラスのパクリとみなしています。)しかしアダムスのアメリカ人のスピーチ・アクセントに合わせた叙情的ヴォーカルメロディ書法はグラス風になってしまうのを避けています。この新ポスト・ミニマル言語ははっきり展開する音楽ドラマをサポートし、感情を高め登場人物をヒロイックに生き生きと描くまでになったのです。
 「Nixon in China」が終わるとアダムスは世界的セレブリティになっていました。タイム誌に特集が組まれ、ドリー・パートン(カントリー歌手)やインディラ・ガンジーと共にピープル誌を飾りました。「Nixon in China」を嫌う人もいました。ニュー・ヨーク・タイムズのドナルド・ヘナハンは「マクドナルドがハンバーガーにしたようなことをアダムスはアルペジオに対して行なった。」と書きましたが、反対者は少数でした。あのニュース・キャスター、ウォルター・クロンカイトがホストを務める全国TVで「Nixon in China」が放映される頃にはアダムス/セラーズ/グッドマンチームは扇情的トピックになっていました。
 このチームは次作オペラの題材として一九八五年に起きたパレスチナ人テロリストによる旅客船アキレ・ラウロ号ハイジャック事件とその船上で起きた車椅子のユダヤ系アメリカ人レオン・クリングホッファ殺人事件を選びました。「Death of Klinghoffer」(1991)は、この一つの事件を越えてアラブとユダヤ民族の果てしない悲劇的衝突を考察するまでに至っています。そして音楽はバッハの「受難曲」をモデルにした豊かな合唱曲で占められていて、ミニマル・ミュージックを遥かに超越してしまっています。したがってこの本の対象からは外れてしまうのです。
 「Nixon in China」以後のアダムスをミニマルの文脈で語るのは実際無意味なのです。今日、ミニマリズムはアダムスの多面言語パーソナリティーの一面に過ぎません。最も重要に見えるスタイルをただ並置するだけでなく、まとめあげるのが彼の才能なのです。コープランドの四〇年代、バーンスタインの五〇年代以降絶えて久しかった庶民感覚と真面目なクラシック的大志を同世代作曲家の誰よりも分かりやすく純粋アメリカ風に統合して見せたのです。
 ミニマリズムをレトリックとして使いそして、生命力溢れるポストモダン・ミュージックシアターに利用しているのはアダムスだけではありません。かなり異なった視点からアプローチしていますが、同じような事をしてるアメリカ女流作曲家がいます。批評家が彼女の作品をカテゴライズできない為、軽視されがちです。しかし彼女を無視してはいけません。作曲家、歌手、俳優、振り付け家、ダンサー、映画監督、パフォーマンス・アーティスト、分類不能の変幻自在な才能がここにいます。彼女の名はメレディス・モンク。
 数年後にライヒやグラスを育てることになるロウアー・マンハッタンの芸術家コミュニティーからモンクは出てきました。しかしこの混濁した芸術カテゴリーを愛好する彼女の性格はニュー・ヨーク近辺に住んでいた子供時代にまで遡ります。音楽は母方の家系から来ています。曽祖父はモスクワのユダヤ礼拝所の先唱者、祖父はオペラのバス歌手で音楽学院長、母はオペレッタ、ポップソング、ジングルの歌手でした。(ダズ石鹸、ブルーボネット・マーガリン、ムリエル煙草、ロイヤル・プディングなどのラジオCMでよく知られた母親の声の思い出を愛情たっぷりに語ります。)モンクは文字より先に音楽を理解し、1946年三歳の時にピアノとダルクローズ・ユーリズミックス(音楽と運動と即興を混ぜた芸術教育)を学び始めました。十代で彼女の柔軟な声は素晴らしく叙情的なソプラノになりました。
 ニューヨークの富裕な北側住宅地にあるサラ・ローレンス大学に通う頃には芸術に対し複合的アプローチを取り始めていました。大学では、作曲/ヴォイス・レッスン/オペラ・ワークショップと、振り付け/劇場/映画の授業を一緒にしたパフォーミング・アーツ・プログラムに参加しました。六四年に卒業しニューヨークに移りました。彼女の「声」がなかったら、六〇年代中期ソーホーに溢れてた多くのマルチメディア・パフォーマンス・アーティストの一人で終わってたかもしれません。
 モンクは、どんなソプラノ・オペラ歌手もうらやむような三オクターブの声域に恵まれていましたがこのユニークな能力に気付くのはマンハッタンに帰ってからでした。

 一九六五年のある日、ピアノの前に座っている時悟ったのです。声は背骨の様なしなやかを持ち、体の様に柔軟性を持ち得るのではないかと。体に振付をするように、声を私の楽器/語彙として発展させられるのではないかと。その同じ日にわかったのです、「声」には上記した全てがあると。そしてその時私の進むべき道が見えたのです。

 彼女は自分で道を切り開いて行きました。モンクは苦労して全く新しいヴォーカルテクニックを創造しました。彼女は声を使って歌い、踊り、うめき、ヨーデルし、金切り声を上げ、ゴロゴロ言い、囁くようになりました。老婆から少年まで、金切り声をだす幽霊からピーチクパーチク鳴く動物そして僧侶の詠唱まであらゆるキャラクターを登場させられるようになったのです。最も特筆すべきなのは、これらを単語を使わずにやってみせる事なのです。すっと流れるヴォーカリーズ、意味のないシラブル、儀式的呪唱でやってみせるのです。ソロ・パフォーマンスを数年やった後の一九七八年モンクはメレディス・モンク&ヴォーカル・アンサンブルを組んで歌手の団体に彼女の「拡張ヴォーカル・テクニック」を教えるようになりました。
 彼女のテクニックは異国文化を思い起こさせますし又彼女の音楽にはイヌイットの喉歌、バルカンの鼻音歌、チベットの詠唱といった多くの非西洋スタイル風のものが聞き取れます。
 しかしこれは純粋に実験を重ねて見つけた物ですと言っています。「自分自身の楽器を使っていくことで文化を超えた身振りに出逢い、世界ヴォーカル家族の一員になるのです。私は時々古代の声を発見しつつある音楽考古学者みたいに感じ、人間の霊魂と記憶を開放してるように感じます。」
 この霊魂の話しはモンクの作品に合ってるようです。彼女の行動全てに素敵な魔法と可愛らしい純真さがあります。軽蔑的意味を含めないなら「ナイーブ」と言ってもよいでしょう。物語や伝説を紡ぐ人のように、半ユング的共同体記憶を喚起する神話の源泉へと入り込むのです。彼女の作品の意味を明らかにするのは困難ですが確かにそこに存在しているのです。
 モンクのミュージック・シアターに対する謎めいた非ストーリー系アプローチはグラス/ウィルソン「Einstein on the Beach」から影響を受けてるかもしれません。彼女の拡張ヴォーカル・テクニックはブクブク鳴るキーボードに支えられ、短いメロディ核の反復と変容によって組み立てられています。(グラス同様モンクも用語「ミニマリズム」を嫌っています。しかし彼女の多様なヴォーカル・スタイルを除けば、彼女の楽器音の質感には合ってるのではないでしょうか。)彼女の漂う時間感覚と一緒に、照明、運動、ステージングの素晴らしい組み合わせは静かでとらえどころのないロバート・ウィルソン的宇宙に近いものがあります。しかし彼女をエピゴーネンとみなすのは間違いでしょう。自分の声を非慣習的でドラマティックな物に変える道を探している若い歌手(例えばパフォーマンス・アーティストのダイアマンダ・ガラス)にモデルを提示してるのがモンクなのですから。
 何年もかけてモンクは拡張ミュージック・シアター作品を徐々に作ってきました。物語のようなものがかすかに有る幾つかの作品を彼女は「オペラ」と呼んでいます。「Book of Days](一九八八年白黒フィルムで制作、後に録音化)では十四世紀ヨーロッパに生活するユダヤ人女性エヴァの役をモンクが演じます。混乱した二十世紀ヴィジョンを見るエヴァは疫病/戦争/宗教/迫害の中世と、エイズ/核絶滅/人種闘争の現代との類似性をモンクに語らせます。しかし、いつものようにですが、モンクはこれら現代政治的主題をはっきり表現するのではなく、指し示す程度にしています。「散文作者より詩人に近いのです。私の音楽は基本的に非言語的ですし政治的現状から解放されていたいのです。」
 「Atlas」(1991)でモンクは初めて、自分の作曲家/歌手/振付師/デザイナー/監督としての全才能を純粋なオペラの元に集結させました。三楽章オペラ「Atlas」は普通の声と楽器用に作ったのでモンクは自分の語彙をよりトラディショナルなものに当て嵌めなくてはなりませんでした。「Atlas」は世紀末フランスの探検家アレクサンドラ・デヴィッド・ニール(チベットに着いた西洋最初の女性)にインスパイアされています。このオペラでは、アレクサンドラと同伴者は地球を周遊し農耕社会を訪ね、雨林や北極やサハラ砂漠に行きます。厳しい試練を乗り越えていく航行は精神成長のメタファーになっているようです。最後に彼女達は地球を越えた知と美の世界に登りつくのです。
 これは伝統的なオペラとは全く違います。ライヒと同様に、モンクはオペラのファンではないし、オペラ舞台の大袈裟な感情表現も嫌いです。彼女はオペラ風に「愛している!」と歌ってみせて、「あんなのは嫌いです。言ってる事が全然理解できません。声そのものが言葉であると私は思っていますから。」
 したがって「Atlas」は台本の無い極めて稀なオペラなのです。モンクの特徴的なヴォーカル・テクニックを使って、18人の歌手が声の共鳴によって意味伝達する非言語叙情を作り出すのです。その結果、初めて外国語を聞いてるのに全ての言葉が分かるような奇妙な感じを受けるのです。「「Atlas」でやろうとした事は、広範囲に渡る思考を繋いで心に直接響かせる事でした。」
 「Atlas」のヴォーカルラインは以前の作品同様に、シンプルに輝くテクスチャーがサポートしています。この簡素な反復メロディは忘れられないような美しさをたたえ、まるでカモメの鳴き声のように自然に大きくなっていきます。徐々に現われる表現性と個人的スタイルを注ぎ込み、ミニマルの反復技法と定続パルスを使用した彼女の器楽書法をポストミニマルと呼んでも良いのではないでしょうか。
 ジョン・アダムスとメレディス・モンクの音楽は、ミニマリズムの影響性とスタイルの属性がどうなっているのかを見せてくれます。つまり第二世代の作曲家はライヒとグラスの非人間的厳格性を取り出し、先輩達が想像も出来なかったような物に作り変えたのです。そして今ライヒとグラスを祖父にアダムスを精神的父親に持つ更に若いアメリカ人作曲家グループが頭角を現して来ています。ミニマル・スタイルのなおも拡大していく様子がマイケル・トーク(一九六一年生まれ)、アーロン・ジェイ・カーニス(一九六〇生まれ)、ジュリア・ウォルフ(一九五八生まれ)、デヴィッド・ラング(一九五七生まれ)、マイケル・ゴードン(一九六〇生まれ)の作品に見うけられます。
 四十年もしないうちにミニマリズムは歴史書に記載され、アメリカ音楽語彙の中に永遠の地位を得ました。もし音楽スタイルの重要性が柔軟性、影響力、無限の変化に耐える能力から判断されるのならば、ミニマリズムは非常に重要な音楽形態であると言えるでしょう。

第七章 ヨーロッパ編:ナイマン、アンドリーセン、ペルト
 しばしばミニマリズムはアメリカで生まれ、育ち、発展してきたムーブメントと考えられています。確かに六〇年代後期、人々の意識にはテリー・ライリー、スティーブ・ライヒ、フィリップ・グラス等のアメリカ人作曲家が浮かんでいました。しかしながら例えば、七一年ライヒとグラスが一緒に最初のヨーロッパ・ツアーをしたようにミニマリズムはすぐヨーロッパに広がりそして又世界へと広がっていったのです。非西洋音楽、ポップ・ミュージックから影響を受けながら、作曲家は自身のバンドを率いてロック・コンサート風に演奏しました。このミニマリズムはまるでアメリカン・フレッシュエアーの爆発みたいだったのです。また多くのヨーロッパ人は戦後音列主義の行き止まりからの脱出口はこれかもしれないと思いました。
 ヨーロッパの作曲家の中にはライリー、ライヒ、グラスの音楽を啓示ととらえた者がいました。イギリス人作曲家マイケル・ナイマンとオランダ人作曲家ルイス・アンドリーセンのとった反応が新たな創造の予兆であったといっても過言ではなかったし、実際彼らの作曲生涯の方向性を変えてしまうほどの経験だったのです。アメリカ・ミニマル・ミュージックはさらに遠く旧ソ連にもゆっくりと浸透していきましたが、この言語がエストニアのアルヴォ・ペルト、ポーランドのヘンリク・グレツキの所に着く頃にはハッキリとした(とても非アメリカ的な)精神性を持って歌うまでになっていました。
 「ミニマリズム」と名付けた最初の人物であると悪名高いマイケル・ナイマンは、七〇年代初頭にこのアメリカからの新風を聞き始めなければ作曲の道へ戻ることはなかったかもしれません。商業的に大成功を収めていながらクラシック界からは故意に無視されているという相反するナイマンの状況を考える時、かなりの音楽教育を受けてきた経歴を忘れずに思い出して欲しいのです。
 一九四四年三月二三日ロンドンに生まれたマイケル・ナイマンは王立音楽院でピアノ、ハープシコード、音楽史を学び作曲は共産主義作曲家アラン・ブッシュに師事しました。その後ロンドンのキングズカレッジに進み音楽学と古楽の専門家サーストン・ダートから英国ルネッサンスとバロックの栄華について教わりました。シンプルな反復を構成的な技巧に混ぜ比類無き情熱をわかりやすい方法で伝える(ダートお気に入りの一人)ヘンリー・パーセルの作曲法にナイマンは衝撃を受けたに違いありません。ダートは又民族音楽への興味を押し進めるよう促したのでナイマンは一九六五年ブカレストに行きルーマニアの民族音楽を研究しました。
 ナイマンは既に音楽研究から足を洗っていたが、そこから得てきた物が心の中で大きくなっていました。長年の研究が逆に作曲の大きな障壁となり一九六四年から七六年は実質何も作曲しませんでしたがその障壁の原因は内的創造力というよりもしろ外的な作曲技法にあったのです。
 
 学生だった六一〜六四年私はヒンデミット−シェスタコービッチ型の曲を書いていました。当時出会ったマックスウェル・デイヴィス、バートウィッスル、ゴーアーのマンチェスター学派では、音列曲を書くのは当然、しかも音列以外は全て白痴音楽であると見なさなければなかったのです。ベンジャミン・ブリテンに少しの敬意さえ見せてはなりません!全てはダルムシュタット、このポスト・ウェーベルン音列ナンセンス。私も音列曲を書こうとしたけど諦めました。その後六四〜七六年まで一音符も書かなかったのは、自分を曲げて音列作曲を受け入れるなんて出来なかったからなのです。

 ナイマンは音楽は作れなくとも音楽について書くことはできました。この十二年間(六四〜七六)は「The Listener」「The Newstatesman」、特に「The Spectator」誌に定期投稿する多作な批評家でした。六八年にナイマンはコーネリアス・カーデュー「The Geat Learning」のレヴューで‘ミニマリズム’という(悪名高い)新しい音楽ジャンル名を作り出したのです。「あれは雑誌用広告のたたき文句みたいなもの。まぁ、私が悪人って訳だ。半年刑務所に入ってもいいですよ。」と腹立たしげに語りました。新しい音楽シーンに対する深く広範な知識を持ったナイマンは七四年に「Experimental Music:Cage and Beyond」を出版。見苦しいレトリックに満ちた音列主義以外の戦後前衛音楽について考察した、いまだに最善の書です。この本で取り上げたテーマの一つがミニマリズムであり、カーデューだけでなく(ナイマンが聞き始めていた)ヤング、ライリー、ライヒ、グラスのアメリカ作曲家の音楽にもこの語を使いました。
 ナイマンは即座にアメリカ・ミニマリズムの擁護者になり、ライヒ&ミュージシャンとイギリスで演奏したりしました。しかしこの本がもたらした最大のものは、ナイマンを作曲の道へ連れ戻したことでした。今までは反音列主義作曲家になるあらゆるスタイルを広範に調べることで長い間自分を慰めている様でしたが、いよいよ自分のスタイルを見つけることになるのです。
 一九七六年、ロンドン国立劇場音楽監督ハリソン・バートウィッスルがカルロ・ゴルドーニのオペラ「イル・カンピエロ」(一七五六年作)の新演出用に十八世紀ベネチアのゴンドラの船頭の歌を幾つかアレンジしてくれるようナイマンに頼みました。それを受けてナイマンは、その古い船頭の歌を中世楽器(rebecs,sackbuts,shawms)とポピュラー音楽楽器(バンジョー、バスドラム、ソプラノ・サックス)を使う混成バンド用にアレンジしました。出てきた音はひどくノイジーで耳障りであっても彼にとってはとても面白かったのでこの混成形態を自分のバンドに取り入れて作曲し始めたのです。
 ナイマンはあっという間に正統派ミニマリストになりました。「七六年に作曲を再開した時、音列主義ではなくはっきりしたミニマリズムの形をとる私のスタイルはほとんど一夜のうちに作られ完成しました。しかしながら私は骨の髄までクラシック音楽教育を受けていたので、常に調性とハーモニーとメロディに敬意を払っていました。ミニマリズムはこう言います、『調性和音を使っても良いし、定期パルスを使っても良い』と。これはもちろん私が六〇年代後期に聞いてたテリー・ライリー、ビートルズ、ベルベット・アンダーグラウンドにも通ずるものでした。」
 中世楽器を外し特にサックスを増員した木管楽器、金管楽器、弦楽器、キーボード、エレキギターで構成される新マイケル・ナイマンバンド用の曲作りにすぐ取りかかったのです。音列主義が閉ざしたポピュラー音楽へのドアをミニマリズムが開いたことにナイマンは、特に喜んでいました。「今日、ポップ・ミュージックの存在を認めないような音楽を作るなんてどうかしています。シュトックハウゼン派やバートウィッスル派はポップ・ミュージックを無意味な物として完全に放棄し嘲笑していますが。」
 ナイマンの音楽はミニマルである以外はアメリカ勢と大きく異なっていました。ナイマンはアフリカやアジアの伝統をクラシックと融合させるライヒやグラスの手法を不快に感じ、良心のある西洋人には出来ないだろうと思っていました。だからナイマン流ミニマルにはライヒ、グラスの反復パルスに影響を受けているけれど非西洋的要素は一切有りません。実際彼のハッキリした展開、盛り上がるクライマックス、典型的コード進行はヨーロッパ伝統直系です。彼は以下のように説明しています、
 
 批評家として作曲家として私がいつも引き合いに出すヨーロッパミニマルとアメリカミニマルの大きな違いはそこなのです。基本にヨーロッパの伝統があり、そのヨーロッパの伝統的シンフォニーから私はアイディアやインパクトを受けています。我々がしている事と非西洋音楽に多くの共通性があることははっきり認識していますが、それらを使わないよう心がけています。一つには私の服はモーツァルトであってガーナ衣装ではないし、そういう搾取文化拡張政策的側面を耐えがたく感じていることもあります。もう一つには非常に西洋化したハーモニー言語を使う方向で作曲したいという事もあります。

 ナイマンをけなす人々は、彼の手法は西洋的だけでなく完全なパクリであると言います。ナイマンの七〇〜八〇年代作品はパーセルからベースラインを、シューマンからメロディを、モーツァルトからコード進行を借りてきてそのままミニマル化していました。西洋音楽文化から取り出した欠片を対位法的多層化、定続反復、パルスリズム等のミニマルプロセスに入れ、次にナイマン・バンドのノイジーな音色を付け加えるのです。出てきた音楽を粗悪な冒涜と取るか、歴史ある音楽の素晴らしいポストモダン的再解釈と取るかはあなた次第なのです。
 「イン・レ・ドン・ジョバンニ」(1977)はモーツァルトのオペラから一つのコード進行を取りだして反復パルスに散りばめた作品で、まるで剥き出しのロック・エネルギーが気取った十八世紀クラシックに突っ込んだみたいでした。『英国式庭園殺人事件』(1982)のフィルム・スコアではパーセルの固執低音とシャコンヌには手を加えず、ロック・アレンジしたその反復ベースラインの上に、ずうずうしくてけばけばしく且つ時に胸打つ感動的な新しいメロディを作り出しました。『英国式庭園殺人事件』はナイマン初の商業的成功になり、ピーター・グリーナウェィ監督との関係を確かな物にしました。七七〜九〇年の間に(十の映画を含む)十八のサントラで手を組み現代映画史に残る最も実りあるコラボレーションの一つでありました。『ZOO』(1985)、『数に溺れて』(1987)、『コックと泥棒その妻と愛人』(1989)、『プロスペローの本』(1990)にみられるように、ナイマンとグリーナウェイは同じ芸術家気質を持っています。つまり暴力、セックス、視覚多重の形を取る過剰なバロック偏愛なのです。グリーナウェイの映画には狂ったような興奮が秘密儀式や連祷と渾然一体となっています。グリーナウェイとナイマンにとって全歴史経験は再考対象であり、二人が再解釈するとショッキングなくらいグロテスクな外観を見せるのです。しかしその派手な外観の奥底には予想外の相関性を持たせる合理、形式主義的構造が潜んでいるのです。
 ナイマンの最も繊細な八〇年代作品はアメリカ人神経学者オリヴァー・サックスの事例研究を基にしたオペラ『妻を帽子と間違えた男』(1986)でありました。周囲の物を見ることは出来るがそれが何なのか理解できない年老いたP博士の不思議な話です。音楽教授のP博士は自分の行動と音楽を結びつけることでどうにか普段の生活を営むことが出来ました。ナイマンはこのオペラ音楽にシューマンの歌曲集『詩人の恋』を使い、特に「Ich Grolle Nicht(私は嘆くまい)」のメロディがナイマン風アレンジに変わっていくのでした。終わり無く続くパルスと歴史事象のポストモダン的ゴッタ煮であるオペラ『妻を帽子と間違えた男』は確かにグラスとアダムスの影響を受けてはいます。しかしこれは、多くの人が疑っていますが、ナイマンの精錬された優しさが染み出ている作品なのです。
 世界中の人々がナイマンのサントラ『ピアノ・レッスン』(1992年監督ジェーン・カンピオン)に同じ優しさを感じて感動したのでした。この映画では女優ホーリー・ハンターが十九世紀、ニュージーランドの奥地に初めて来た若い女性エイダの役を演ずるのですが、彼女が実際にカメラの前で弾く事を想定してナイマンはこのピアノ曲を作りました。エイダは見合結婚をするためピアノと幼い娘を連れてスコットランドから南太平洋へとやって来ます。しゃべれないエイダはピアノを通してしかコミュニケーションがとれません。「エイダは話せないので、このピアノ曲はただ感情を現すだけでなく彼女の声の代わりも務めるようになります。つまりピアノの音は彼女の性格、気質、表現、無口な会話を表すものになってゆくのです。」とナイマンは書いている。
 ナイマンはいつものように過去の音楽に向かい独自の反復、ミニマル手法により古いスコットランド民謡を再構築したのです。エイダ自身が気ままに作曲したものと想定しこの十九世紀音楽を二十世紀型にアレンジしました。批評家の中にはアナクロで映像に合ってないと言う者もいましたがナイマンはこの新しく陰のあるゆったりとしたリリシズムでもってニュージランドの風吹く山々、波打つ海岸風景と共に、エイダの心に沈泥する感情をも表現し、多くの人々を感動させたのでした。
 『ピアノ・レッスン』のサントラは百五十万枚を売上げナイマンはフィリップ・グラスと同じ位世界的に有名になりました。マイケル・ナイマン・バンドは『ピアノ・レッスン』をライブ用に編曲しワールド・ツアーに出たし、後にオーケストラ曲「Piano Concert」(1993)にもなりました。演奏会作品委嘱を多く受けるナイマンは今オーケストラの作曲にやる気十分ですが、いまだに一つ欠けている物があります。それは彼が最も望んでいるだろう物、つまりクラシック界からの敬意なのです。北ロンドンの自宅かフランスのピレネー山脈にある農家か或いはバンドでツアーに出たりしてる間にナイマンは確かに世界的に有名になりました。しかし彼はこの事(ポピュラーになった事)で逆に自分の音楽に芸術的価値が無いとみなされているのではないか、と考えています。「私はかなりの妬みや尊大な批評と戦わなくてはならなかったのです。ロンドンのフェスティバル・ホールでコンサート出来るし、現代音楽ではめったに無い拍手喝采を浴びる事も出来ます。しかしそこには当惑し怒りむすっとした顔の批評家がいつも座っているのです。」
 これは多分、過去の音楽クリシェを再構築するナイマンのやり方があまりにも器用で露骨に引用しすぎるからでしよう。しかしながらナイマンが影響力を持ってるのも確かなのです。ナイマンがいなければ、ポストミニマル新世代の英国作曲家スティーブ・マートランド(一九五九年生まれ)が自分のバンドでツアーするなんて事は無かったでしょう。彼のバンドは相当ウルサくてナイマン・バンドがソフトに聞こえるくらいです。実際マートランドの音楽はナイマン以上に激しく叩かれているのです。ある英国のクラシック評論家はこう言います「大きな穴を掘って彼の音楽という代物を今すぐ埋めてしまって、後世にトラブルを残さぬようにしよう。」
 実際マートランドが師事したのはナイマンではなくルイス・アンドリーセンでした。アンドリーセンはオランダの作曲家で彼の挑発的政治態度と賛否両論ある音楽によって保守的なクラシック界に何十年も物議をかもしています。
 アンドリーセンは、アメリカ・ミニマリズムと二十世紀ヨーロッパ・モダニズムにルーツを持つ生粋のヨーロッパ系ミニマル作曲家とされています。彼と話せば、バッハとストラヴィンスキーがオレのアイドルだと即答するでしょう。しかしまた自分の音楽を成長させる手助けとなったアメリカ・ミニマリズムからも当然影響を受けているのです。
 一九三九年六月六日ユトレヒト生まれのアンドリーセンは、作曲家兼ユトレヒト大聖堂オルガン奏者だった父ヘンドリック(1892-1981)の好む音楽を聴いて育ち、教会では父の横に座りバッハの簡素なポリフォニーと父の即興を学びました。家庭では父は非常にエモーショナルなドイツロマン主義よりもストラヴィンスキーやフランスクラシックを好んでいました。その一方一九四五年オランダ解放以後、アメリカのジャズがオランダになだれ込み、アンドリーセンはチャーリー・パーカーのビバップ、カウント・ベイシーのビッグバンド、スタンケントンのオーケストラを聞くようになりました。
 音列実験の第一波がヨーロッパ中を席巻した一九五七年、アンドリーセンはハーグ王立音楽院に入学、オランダの十二音作曲の第一人者キース・ヴァン・ヴァーレンの下で学び始めました。当時を振り返って誇らしげに言います「五八年ごろ私はオランダ最初期の音列作曲家でした。音列のストレンジな感じが好きでした。家で聞いてたきれいに組み立てられたフランス音楽とは全く別世界で、しかもある意味禁断の地だったわけですし。」
 六〇年代初頭には音列主義を捨て無茶な前衛実験にひた走った。六二〜六四年ミラノとベルリンでルチアーノ・ベリオに師事し、ピエール・ブーレーズ、カールハインツ・シュトックハウゼン、ダルムシュタット学派、ジョン・ケージ一派を知るようになりました。しかしながら熱心なマルクス主義者だったアンドリーセンは前衛の革新的理想とそのエリート主義の大きな隔たりに悩み始めていました。六〇年代後期ヨーロッパの街角や大学で吹き荒れた暴動に関わるようになると、アンドリーセンはより多くの人々と交流出来る音楽言語の必要性を感じたのです。「街角で革命を目にして分かったのは、私のスタイルは音楽家と世界を一緒にする物で無くてはならないという事でした。」とアンドリーセンは言います。
 アンドリーセンは交響楽団といった既存のアンサンブルに曲を書かない事に決めました。

 反体制的発言をしていた当時、例えば‘オーケストラは資本主義者とレコード会社にとってのみ重要である’とオーケストラを拒否する強固な政治的理由がありました。実際私は今でもそう思っています。もちろん音楽的理由もあって、新しい音やジャズと前衛音楽両方を含む音楽を探していたのです。

 だからアンドリーセンは高/低文化境界線を無くす‘民主的’アンサンブルを組みました。バンド名はDe Volharding(忍耐/究極の救い)、軍隊風に肩を並べて立ち、家でも街頭デモでもコンサートホールでも平等でした。
 社会的意味があり且つ分かりやすい音楽を必要としていたDe Volhardingに、幸いアンドリーセンはアメリカ・ミニマリズムを見つけ出していました。一九七一年にアメリカ人作曲家フレデリック・ジェフスキがテリー・ライリーのアルバム『In C』をアムステルダムに持ってきた時、アンドリーセンはその反復するジャズ要素、定期パルス、民主的参加型の音楽形態にすぐ惹きつけられたのです。「In C はインテリと無教養の人を結びつけたのです。これはまさに私が当時考えていた、そして今でもそう思っている音楽のあるべき姿なのです。」
 間もなくライヒの初期作品を聴いて感動したアンドリーセンはハーグ音楽院でライヒ作品演奏会を開きました。アンドリーセンはライヒに自分と同じ匂いを感じたのでしょう。つまり若い頃はビバップとストラヴィンスキーに熱中し、音列主義をかじる事で構造の厳格さを偏愛し、自身の音楽が革新過ぎる為自営バンドを作らざるを得なかった、というような事を。「私ははライヒの音楽時系列に対する全く新しいアプローチ、ポップなパルスを組み込んだ非展開的側面に魅了されました。ライヒの音楽は世界中からのあらゆる影響にオープンで、そこに親近感を持ったのです。その時未来への扉が沢山開いているのに気付きました。」
 即座にDe Volhardingに作った曲にはアンドリーセンがアメリカミニマリズムに入れ込んでいる事が表れていました。マイケルナイマンが後に異なっていった様にアンドリーセンのミニマリズムもライヒのとは異なったミニマルになっていきました。アンドリーセン初の巨大ミニマル企画「De Staat」(国家;1972-76)はノイジーなユニゾン、ラウドな強弱、絶え間無いリズム・ドライブから成るユニークな音宇宙でした。この徹底してヒステリックな音色はアメリカミニマリズムのソフトなタッチとは全然別物です。アンドリーセンは含み笑いしながら言います「頑強で肉体的、これがアメリカのとてもコズミックなカルフォルニアサウンド・ミニマルと最も違う所。アメリカには不安や苦悩が無い!私はもっとアグレッシブだと言いたいのです。」
 「De Staat」と次作「De Tijd」(時;1979-81)がライヒやグラスと大きく違っている点はそのアグレッションだけではありません。アンドリーセンの音楽にはミニマリズムの影響と同様にストラヴィンスキー、オリヴィエ・メシアン、ジョルジ・リゲティ等ヨーロッパモダニズムから受けたキツイ不協和音や鋭く尖った半音主義の影響も見られます。「私はヨーロッパの作曲家だし、今でもアメリカ系作曲家よりたくさん半音を使っています。私の音楽は概して複雑で頻繁に変化するし、和声に全音階を使うことは少ないのです。」
 声と楽器が耳障りなパルス的混合だった「De Staat」はジョン・アダムス(が後に作る曲)のかなり先を行っていたといえます。一方「De Tijd」には独自の世界観があります。これは時間の本質に関する聖アウグスティヌスの熟考を基にした曲で時間の流れを浮遊させる四十分もの作品です。しかしアンドリーセンの根っこはヨーロッパ人なのでライヒみたいな非展開的要素を入れるのには我慢出来ないのです。だから声と楽器の不気味な半音ドローンの「De Tijd」では、徐々に間隔が狭まる金属パーカッションが加わりはっきりと展開していくのが分かります。「私は素材をミニマル化するけど、アメリカ系よりもっと発展させます。」とアンドリーセンは認めています。
 七〇年代を通してアンドリーセンはアメリカン・ミニマリズムを支持し続け、七六年にハーグ音楽院でミニマル音楽ゼミを始め、この授業からアンドリーセン第二のバンドHoketusが生まれました。ジャズミュージシャンの集まりだったDe Volhardingとは違い、ホケトゥスのメンバーはポップミュージックで使われるエレキギターやパーカッションを持つロック系の生徒でした。「ホケトゥス:奴らは若き狼さ。イデオロギー的にはDe Volhardingと大体同じですね。」とアンドリーセンは嬉しそうに言う。
 De Volhardingとホケトゥスを合体させるという初の試みの為に「De Stiel」(1984−5)を作曲した。女声、木管、金管、キーボード、エレキギター、重金属パーカッション(「車のバンパー使った方がいいかも」アンドリーセンは冗談半分に言います)が唸りをあげて襲いかかってくるような曲です。彼はこの編成をクレイジーな二十一世紀型オーケストラと呼び、未来のアンサンブルとみなしています。
 「De Stiel」というタイトルはオランダの画家ピエト・モンドリアン(1872-1944)を中心とするサークルDe Stielから取られました。モンドリアンの抽象幾何学的な絵が「De Stiel」の深層形式構造の基になっているのです。「De Stiel」は独立した作品でしたが最終的にオペラ「De Materie」(物質;1984-9)の第三部に成りました。このオペラは非ストーリー系ミュージックシアターの比類無き巨匠ロバート・ウィルソンが監督した長大な四部構成作品でした。
 アンドリーセンの作品中最もポップカルチャーへの情熱が現れているのがこの「De Stiel」。キーボードとエレキベースから始まるファンキーでシンコーペーションがあってしつこく反復するディスコ・ベースが二十六分ずっと続く作品です。アンドリーセンはアフロアメリカン音楽の影響をはっきり認めてこう言います「私はモータウンが前から好きです。六〇年代当時でさえシュープリームスの方がビートルズよりずっと良いと思ってたました。ここ数年はチャカ・カーン、ジャネット・ジャクソン、アニタ・ベイカー、マライア・キャリーなんか買いました。全部凄く良いですよ。」
 間断無きベースライン、管楽器の凶暴な爆発、マジで不快な打楽器クラッシュ、アグレッシブな突進力は「De Stiel」の美的マニフェストそのものなのです。実際彼はヨーロッパ前衛の不協和音、アメリカ・ミニマルの反復、ポップミュージックのパワーを混合してみせたのです。彼は今でもシリアスな文化とポップカルチャー間の壁を壊そうとしています。「とても良い事でしょ。ここでまた“民主的”という言葉を使いたいね、境界線を取っ払いたいのです。これは作曲家以外の人にとっても義務ですね。未来には上流と下流、金持ちと貧乏人との差がもっと小さくなるような世界を望みます。」
 アムステルダムに住むアンドリーセンは若い反抗的作曲家たちの教祖になりました。彼のカウンターカルチャー的態度、左翼思想、クラシック界の保守的機構・慣習に対する軽蔑、独創的なミクスチャーに魅せられた若い作曲家たちがオランダに集まって、学び、話し、アドヴァイスを受けたのでした。スティーヴ・マートランドの音楽スタイルや反エスタブリッシュな態度はアンドリーセンがいたからですし、三人の弟子デヴィッド・ラング、ジュリア・ウォルフ、マイケル・ゴードン達がニューヨークでバング・オン・ア・カン・フェスティヴァルを続けているのも彼がいたからなのです。六〇歳になろうとしているアンドリーセンは自分が引き起こし続けるトラブルの中に尽きない喜びを見出しているに違いありません。
 この本で取り上げる作曲家とアルヴォ・ペルトは地形的、音楽スタイル的にもかけ離れています。彼の音楽を‘ミニマリズム’で括るべきではないと言う人も多いでしょう。ミニマリストと言うよりは中世研究家であるペルトは深い精神性を持つ古くて新しい音楽を作り出しています。今日のひどく非宗教的時代の真っ只中で、ペルトの音楽は穏やかな宗教性を放射し、二十世紀後半の音楽スタイルの混乱錯綜した状況にまき込まれるのを拒否しています。
 彼は苦労してこの静穏さを手に入れたのです。眉毛の上にも彼の悲しい音楽にも苦闘の跡が残っています。一九三五年エストニアのパイテ生まれのペルトはソヴィエト全体主義と国家無神論政策下で育ちました。母と継父はグランドピアノのある家に引越し八歳のペルトはピアノを習い始めました。このピアノは中音域がほとんど壊れていてペルトは低音域と高音域だけで音楽を探求せざるを得なかったのです。オーケストラのレコードが街の中央広場でたびたび放送されてるのを知った十代のペルトはオケ曲を聴きたいと思いながら広場を自転車でぐるぐる回ったものです。
 ペルトはソ連軍軍楽隊スネアドラム奏者として二年間の兵役を終え、五八年になって始めて音楽研究に専心できるようになりました。エストニアの首都タリンにある音楽院に入学しかつてグラズノフの生徒だったヘイノ・エッレル(Heino Eller)(1887-1970)の作曲クラスに入ります。生活費を得る為に彼はエストニア国立ラジオの音楽監督を十年間務めました。しかし放送するよう言われた曲の大半はペルトの好みではありませんでした。
 エッレルはロシア後期ロマン主義をルーツに持っていましたが他の音楽にも寛容だったと思われます。というのは西側から入り始めた戦後前衛の技術を学ぼうとしていたペルトにもアドヴァイスしていたからです。ペルト最初期の作品は調性がありプロコフィエフとシェスタコービッチの影響がありました。しかしペルトは六〇年には音列技法に魅力を感じていました。最初のオーケストラ曲「Nekrolog」(1960)はエストニア国内初の十二音技法曲でもありました。当然ながら音列主義はデカダン且つ反社会主義者的傾向の証拠であるとソヴィエト文化人からペルトに激しい批判が浴びせられました。「最上流のグループからの批判は酷いものでした。十二音技法を含む西側の影響が最も敵対的と考えられていたのです。」と一九八八年にペルトは述懐している。
 絶えず不満を持っていたペルトは音列主義に満足できなくなっていきました。「Perpetuum Mobile」(1963)「交響曲第一番」(1964)は共に音列作品ですが、これらには分厚いテクスチャーとペンデレツキ、リゲティといった現代ポーランドの音色が備わっていました。間もなくペルトは厳密な音列主義から離れコラージュ、引用、不確定性といった技法を、部分的に音列も使いながら雑多に混ぜ合わせていくようになります。「Collage sur B-A-C-H」(1964)はバッハのサラバンドを解体し、「交響曲第二番」(1966)は不協和音に襲われるチャイコフスキーの子供曲の引用で終わり、チェロ協奏曲「Pro Et Contra」(1966)は半バロック音楽的要素を含んでいた。明らかに音列主義以外の道を探していたのですが、まだ自分の道を見つけてはいませんでした。
 六八年ペルトはピアノ、コーラス、オーケストラのための「Credo」を作曲。この曲はバッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻の有名なハ長調プレリュードで始まるのです。ペルトはこれを解体し、汚し、悲鳴を上げるような酷いクライマックスにまで持って行った後、再びプレリュードのシンプルな純粋性を湧き上がらせるのでした。まるでペルトが複雑な前衛技法に別れを告げ再び純粋な調性のパワーを包み込んだみたいでした。ソ連当局はペルトのスタイルをあるいは認めたかもしれませんが、「Credo」の明白な宗教テキストを支持する事はしませんでした。テキストは「キリストの存在を信じます」とはっきり宣言しています。その結果この曲は発禁になりペルトは政治思想を問われる事となったのです。「政治的に意図したものはありませんでしたが、確かに「Credo」における政治意図を尋ねられました。」と後に語っている。
 当局との議論、音楽スタイル再考の必然性から彼は最初にして最後(であろう)創造的沈黙期間に入り、二年間は全く作曲せず中世やルネッサンス音楽の研究に没頭。グレゴリア聖歌の一見シンプルなメロディー、十三世紀ノートル・ダム学派のオルガヌムの簡素な多声音楽、オブレヒトやオケゲムやジョスカンといったルネッサンス期ブルゴーニュ・フランドル学派のモテットやミサ曲を研究しました。「二音又は三音の組み合わせ方に宇宙の神秘が隠されている事をグレゴリオ聖歌から学びました。これは十二音技法作曲家が全く知らなかった事です。」と一九八八年に述べている。刺激的なハーモニーと十四〜十五世紀の複雑な対位法で染め上げた「交響曲第三番」(1971)について七〇年代に一度だけ作曲家として発言しています。「楽しい作品ですが私の絶望と探求はまだ終わっていません」と。
 更に五年探求は続き作曲からほとんど手を引いた状態でした。中世/ルネッサンス音楽の神秘に没頭しエストニアの古楽アンサンブルHortus Musicusと協力し始めました。七〇年代中頃初めてライヒの曲を耳にし、新しい音楽と古い音楽の近似性つまり両方に構造的厳格さと音素材の極端な削減が見られるという事にペルトは驚いたに違いないのです。
 作曲に戻った七六年、ペルトは宗教的信条と最も簡素な音楽表現の持つパワーへの信念を持った作曲家として生まれ変わった。言うまでも無く、当局は必ずしも彼を歓迎しませんでした。この頃にはソ連公認の作曲家たちはペルトが十年以上前に放棄した音列主義を慎重に取り入れ出していたのです。「彼らの九〇%が十二音技法だった時に私はティンティナブリ様式を創り出し、狂っていると再度言われたのです。」
 ティンティナブレーションは鐘を鳴らすというラテン語から来ています。七〇年代後期のペルト作品は古代の響きを湛えたベルの音が使われていましたが彼はもっと比喩的に使っていると言えましょう。つまりこの‘ティンティナブリ’を使って最も純粋且つ最も基本的な音楽要素だけで作られた自分の新しい音楽を言い表そうとしているのです。
 ソ連の文化状況は彼の古めかしい精神性にとっても彼の新しい簡素主義に対しても厳しかったので七〇年代中頃には亡命を望むようになっていました。ペルトの妻ノラがユダヤ系だったので一家はイスラエルを公式の行き先として出国ヴィザを求める事が出来ました。八〇年一月ペルトと妻子はウィーンに着いて、八一年九月には西ベルリンに移りました。正式にはオーストリア市民ですがペルトは今でもこのドイツの首都に居を構えています。
 初めてペルトの音楽が録音されECMから発売された八四年になってから多くの人々にもっと知られるようになりました。世界中のリスナーや評論家は「Fratres」「Cantus in Memory of Benjamin Britten」「Tabula Rasa」という三つのティンティナブリ作品が入っているこのアルバムに深く感動したのです。時を超えたこの新しい音楽は何処から現われて来たのか、そして又この長く黒いひげ、禿げ上がった額、くぼんだ目のまるで旧約聖書の預言者みたいな男はいったい誰なのかと、アルヴォ・ペルトの神秘性を高めました。
 この三作品をアメリカミニマリズムの西ヨーロッパ的派生型とみなすのも確かにうなずけます。ペルトの新しいスタイルはミニマリズムの様に音楽素材を極端に削っていました。初期作品に見られた複雑性、不協和音、音の対立はいなくなり代わりに音階、三和音、アルペジオといった最も簡素・基本的な要素で作られた音楽が、静謐さと霊妙透明な音色と静寂傾向性と共に配置されているのです。ライヒやグラスの速射・運動・ポップ性の反復ミニマリズムとは掛け離れたミニマリズムと言えるでしょう。
 「Fratres」は開放五度のドローンに支えられその上にゆっくり広がるメロディが膨らみつつクライマックスへ向かいそして無へと消えていきます。「Cantus in Memory of Benjamin Britten」はもっとシンプルで色々な弦楽器が異なったテンポの下降マイナースケールを同時に弾きその間に葬送の鐘が寂しく鳴るのです。「Tabula Rasa」は二台のヴァイオリンとオーケストラのためのバロック時代のコンチェルト・グロッソに似ていて、短三和音に装飾を加えたヴィヴァルディ風アルペジオが多用されています。この三作品は音と沈黙の境界線をぼやけさせる儚げで静かな簡素性を共通して持ち、現代の喧騒と新奇さを超越した悲嘆を控えめに表明しているのです。
 インタヴューを一切受けない孤独なペルトについては、彼の動機を明らかにせず逆に曖昧にしてしまう分かりずらい言説で語られています。このユニークな音楽言語を追求している彼の精神探求表現であるティンティナブリ様式へのコメントを引用してみよう。
 「ティンティナブリとは私が人生、音楽、仕事に対する答えを見つけ出そうとしてしばしば迷い込む場所なのです。漆黒の時、私は‘この一つの物’以外はすべて無意味だと感じるのです。複雑で多面的なものは混乱するだけなので私は統合された物を探さなくてはなりません。‘この一つの物’とは何なのか、どうやったらそれに近づけるのか。この完全な物への道は色々な外観を取りますが、重要でない道は全て無くなっていきます。そういう物がティンティナブリです。ここに私は一人沈思し、一つの音、一つの無拍、沈黙の一時、に心安らぐのです。私は一声又は二声のとても少ない要素で作曲します。三和音や一つの調といった最もプリミティブなもので作り上げるのです。そんな訳で私はこれをティンティナブリと呼ぶのです。」
 一九八七年ペルトの2ndアルバム『Arbos』がECMから発売された時インスト音楽だった前作が誤解を生んでいたのが明らかになりました。アメリカの酷く非宗教的ミニマリズムの影響よりも、ペルトの美学は西洋聖歌研究やロシア正教会儀式参加から得られた極めて宗教的なものであることがハッキリしたのです。素材の限定と表面的簡素さがミニマリストにみせていただけなのです。一つ一つの音から最大の感情を搾り出そうとする願いと燃える精神性はミニマリズムを超えているのです。
 ここ数年ペルトはラテン語宗教声楽音楽の作曲に専念しています。八〇年代の三大作品「Passio」(1982)「Stabat Mater」(1985)「Miserere」(1989)は全てキリストの受難関連であり、ペルトの悲しげな音楽にピッタリの主題です。十九世紀ロマン主義や二十世紀表現主義と異なり、ペルトはかなり抑えめ且つほとんど抽象的な方法を使いました。そして現代より遥かに中世に近いテキスト設定には非描写的アプローチを用いこの受難劇を表現しました。だからといってこの曲が無感情なのではありません。とてもシンプルで非常に儀式的整然さを持つ構造の、変化しないゆっくりした反復によって感動が徐々に盛り上がるのです。
 聖ヨハネによる受難をテーマにした七一分の大曲「Passio」を例にとりましょう。ペルトはとても簡素に仕上げたので評論家ピーター・デービスはこう言っています「過熱したプッチーニメロドラマみたいに響くバッハ降臨祭用のくだけた曲を作った」と。実際ペルトは新約聖書のテキストに備わっているドラマ性を出来るだけ中和しました。ヨハネによる物語はソロイストではなく四声によって極めてシンプルに詠唱され、そのリズムユニゾンは聖歌や初期オルガヌムを思い出させます。そこに更に四つの楽器が(対位法ではなく)縦に揃って加わるのです。キリストはオルガンが付くバス、ピラトはテナー、群集の場面では当然フルコーラスになります。
 しかしながら曲が進むにつれて起こるような芝居じみた葛藤やクライマックスへ向かう展開はありません。ただ順序通り、沈思的に進むだけなのです。ほの暗い短三和音や音階と定期等価リズムから成る分かりやすいこの音楽言語は一瞬、半中世的に見えるかもしれませんがペルトは不協和音を投げ入れ、この作品が20世紀の曲だと我々に思い出させるのです。曲の最後に合唱は結句の賛美歌詩「われ等が為に苦しみたもう汝、我等を憐れみたまえ」に戻り、ペルトはここで初めて長音階を使い霊妙な超越性のオーラが合唱から放射されるのです。この曲は二十世紀に前例の無い美の極地でした。
 ペルトは富や名声を求めず草木の茂るベルリン郊外で静かに質素に暮らす事を好んでいます。家族と一緒に過ごしロシア正教会の礼拝に参加し、完全な孤独の中で作曲しています。彼はティンティナブリ様式を純粋且つ多大な努力によって取り入れたのであって、後に金銭的成功を収める事とはなんの関係も無かったのです。
 外的政治抑圧や内精神の危機に取り組んでいるのではペルト一人ではありませんし、また一人きりで正教会儀式の熱い神秘主義や時間を超えた西ヨーロッパ民族音楽をミニマリズムと混合させているのではありません。同じような事がポーランドの作曲家ヘンリク・グレツキ(特に爆発的にヒットした「交響曲第三番」(1976))やグルジアの作曲家ギヤ・カンチェリ、英国のジョン・タヴナーにも見られるのです。実際、超活発なアメリカミニマリズムから離れたこれらの作曲家にスピリチュアル・ミニマリズムという新しいカテゴリー名が当てられています。
 ペルトの偉業は全く驚嘆すべきなのです。彼の音楽は現代の物ではなく、ある意味この世界の物でも無いかのようです。ほとんど根源的な素材だけを使って別の惑星から静かに漂って来たかのようです。我々に休息を与え、悲しみを癒し、超越した存在を感じさせる。そして再びもと来た高みへと静かに消え戻って行く。これが真のミニマリズムか否かなんてどうでもいい事なのです。